生命の誕生は、海の中と言われています。これは別の言葉で表現しますと、流動性のある液相の中で誕生したと言い換えることができると感じています。生命現象は、代謝と繁殖で特徴づけられます。これを固相の物体、すなわち環境中で行うことは無理、不可能であり、液相または気相、すなわち流体の中でしか行いえず、固体内の環境中で生命現象が永続しえないことを示唆します。代謝は、生命体の外部から必要な物質を取り入れて、体内で代謝し、不要となった老廃物を排出することで続きます。生命体の外部すなわち環境が流体でなく固体であると、生命体に必要な物質は代謝が進む中で、生命体周辺で枯渇してしまいます。また生命体から排出される老廃物は生命体にとって不要であり更には害があるゆえに排出されるのであって、生命体の周辺に蓄積してしまうと、生命体は排出した老廃物に邪魔されて、円滑な生命活動を行うことができなくなってしまうでしょう。生命体が生活し、永続するためには、必要とされる物質が供給され、不要となった物質が生命体の周辺から除去される環境が必要です。固体の中という環境下では生命体が誕生し繁殖することは、極めて難しいことになります。しかし流体の中であれば、生命体が必要とする物質が補給され、不要な老廃物は周辺から除去され、生命体に悪い影響を与える可能性は小さく、なくすこともできるでしょう。流体中という環境の中でこそ、生命活動し、繁殖活動することが可能になります。
この流体という環境の重要な要素が輸送ということになります。生命体に必要な物質を送り届け、不要となった物質を拭い去る能力が、流体にはあり、固体の中の環境下では、殆んど期待できないことが、生命体が流体中で誕生し、生活し、永続する所以と思われます。生命体は形を持ちます。形があるということは、生命体が形を維持する固体の膜などで囲われていること示唆されます。この生命体の殆んどが流体であっても環境の流体と生命体の流体を区切る固体の境界が存在し、生命体は、この境界に囲まれて外部の環境と接触し、代謝による必要物質の取入れと老廃物の排出を行っているものと考えられます。生命体の固体の境界は、例えば網の目構造などであって、環境の流体をある程度通過させることができるものかもしれません。しかし、大量の環境中の流体を生命体内部に取り入れ、また内部の流体を排出してしまうと、生命体内部と外部の環境中の流体の組成に違いがなくなってしまう可能性が生じます。多分、生命体が網の目構造などの境界により、環境の流体の出入が可能となるよう環境との区切があったとしても、無制限に環境中の流体を取り入れ、生命体内部の流体を排出することはないと考えられます。
生命体の周りがたとえ流体であっても、生命体との相対速度がゼロであった時を考えます。生命体とその周辺の流体塊の相対速度がゼロであれば、一見、生命体を囲う環境としての流体は、ほとんど固体と同じく、流体への必要物質の供給や排出された老廃物の除去に関して、それほど大きな役割を果たすことができないように思われます。流れによって生命体に必要物質の直接的な供給や排出された老廃物の直接的な除去ができないからです。ただし、流体は固体と違って、分子拡散(分子運動による物質の輸送)による物質移動が、はるかに容易です。流体媒質の間を物質分子が分子運動によりすり抜けることが固体媒質に比べてはるかに容易ですから。従って生命体が必要物質を体内に取り入れて生命体周辺の必要物質濃度が低下すれば、流体間で濃度勾配に駆動される物質移動が惹起され、生命体の必要物質は生命体周辺濃度が環境としての流体より低いがゆえに、移動してきます。生命体周辺に排出された老廃物に関しても同じことが言えます。生命体が老廃物を体外に排出すれば生命体周辺の老廃物濃度が上昇し、生命体からの老廃物は環境としての流体より高いがゆえに、生命体から離れて行きます。分子拡散の拡散係数が、流体中は固体中よりはるかに大きいことが、生命が流体中で発生した最も大きな要因であると言えます。
流れによる物質輸送は、分子拡散よりはるかに効率的です。分子拡散による輸送は、基本的には拡散する物質の濃度に不均一があることが前提になります。濃度勾配がない状態すなわち、濃度が均一であるとき、物質輸送は生じません。流れによる輸送は、濃度勾配がなく濃度が均一でも生じます。文字通り、流れにのって、物質が輸送されます。水道の水を想像してもガス管の中のガスを想像しても、流れがあれば、水道の水もガス管の中のガスも輸送されます。分子拡散による輸送と全く異なります。流れの速度が増せば輸送される量は多くなります。また、当たり前ではありますが、太い直径の水道管と細い直径の水道管の中を流れる水道水の量を考えると、太い直径で流れる量が多ければ多いほど、輸送量は大きくなります。流れによる輸送量は、分子拡散による輸送量とは比べ物にならない効率的な輸送が期待できます。
水道管やガス管を考えるまでもなく、流れは固体壁に沿って、すなわち固体壁の接戦方向に流れますが、固体壁の法線方向、すなわち固体壁を貫くような流れは生じません。もちろん固体壁が完全に密ではなく網の目構造になっており、その網目の間を流れるのであれば、接線方向の流れも生じますが、ここではそうした網の目構造などによる法線方向の流れは生じない場合を考えたいと思います。このような固体壁から、物質が浸み出す場合、もしくは固体壁に流体から浸み込む場合を考えます。物質が浸み出したり、浸み込んだりする例でも、固体壁から熱が流体に伝導する場合もしくは流体から固体壁に熱が伝導する場合を考えても構いません。固体壁から流体に物質が浸み出したり、逆に流体から固体壁に物質が浸み込んだりする典型例は、脱着と吸着があります。流体流に置かれた活性炭やシリカゲルなどの吸着体に、におい物質や化学物質などが吸着したり、脱着したりする現象はよく知られています。熱に関する同様の例は熱交換機などで見ることができます。熱交換器などでは流体温度とは異なる固体壁表面温度であれば、熱が流体側もしくは固体側に伝わります。熱交換器における固体壁と流体間の熱の伝わり方に関しては様々な工夫がなされ、効率的に熱伝達が生じる熱交換器が作成されています。このような固体壁表面と流れの間の物質輸送や熱輸送は、どのような原理が働いているのでしょうか。固体壁表面上では法線方向の流れは生じません。固体壁面上でこれを貫く流れは生じようがありません。流れは、固体壁表面に沿って面と平行に流れざるを得ません。従って、流れそのものによる物質や熱輸送は固体表面上で期待することはできません。
固体表面上では、濃度勾配や温度勾配により駆動される分子拡散によってのみ輸送が生じます。分子拡散による輸送能力は、流体の移動による輸送能力に比べ、はるかに劣ります。しかし、単位時間内に長い距離を輸送することはできませんが、短い距離の輸送で済むのであれば、これがどうして、そこそこの輸送能力を持ちえます。壁面上で、濃度勾配、温度勾配があれば、流体と固体壁面の接触が短い時間であっても、壁から流体側のごく短い距離で相応の輸送が生じるわけです。壁から短い距離であれば分子拡散による輸送であっても、相応の輸送能力を期待することができます。この短い距離は分子拡散による輸送が活躍しますが、その先の輸送は流体の流れが威力を発揮します。その役割は流体の粘性によって生じる速度勾配に対応して生じる渦です。話を簡単にしてイメージ的に説明することをお許しください。
流体が粘性を持ち、物体表面での接線方向速度が、物体表面に近づくほど小さくなり、物体表面ではゼロになることを思い出しましょう。物体表面近くで物質拡散や熱拡散に関する分子輸送を考えているので、運動量の分子拡散現象である粘性を無視することは意味を成しません。この場合、流れは粘性によるせん断力が働き、流れにせん断歪が生じます。流れのせん断歪は、あたかも物体表面上に流れのコロ(流れの渦)を生じさせるように模式化することができます。イメージとしては、物体表面上では流れと逆方向に向かい、物体表面から少し離れたところでは流れ方向に向かって回転する多数の流れのコロ(流れの渦)が、物体表面まで均一に流れる流れに重なりあい、固体壁面上での法線方向速度がゼロから法線方向に壁から離れるに従って速度が速くなる速度勾配が説明されます。多数のコロ(渦)は、物体表面近くで回転し、物体から離れた位置の物質や熱を物体表面近く、分子拡散が威力を発揮する壁から短い距離まで運び、また物体表面から短い距離、分子拡散によって運ばれた物質や熱を物体から遠く離れた場所に運びます。流れにせん断歪が生じることは、物体表面近傍に渦状のコロのような流れを生じさせ、法線方向の物体から離れる流れと物体に近づく流れの双方を持つ渦の発生が期待されます。このような渦の発生は、固体表面から分子拡散で輸送されて来る、もしくは固体表面に向って輸送される熱や物質輸送をさらに効率よく輸送されることになります。
固体壁と流体の間の物質輸送もしくは熱輸送を考える際にもう一つ大事な要素があります。固体壁面上での濃度勾配もしくは温度勾配が流れの方向すなわち下流に行くにしたがって、鈍ってくる現象を考える必要があります。固体表面上での物質伝達、熱伝達は固体壁面上での濃度勾配、温度勾配の大小により輸送量が左右されます。例え固体壁面上での物質濃度や温度が一定でも、固体壁面ごく近傍の流体側の物質濃度や温度は、流れの方向に従って、分子拡散による輸送の蓄積の結果、固体壁面上の物質濃度や温度に漸近します。すなわち、物質濃度勾配や温度勾配は小さくなってしまいます。その結果、分子拡散による物質や温度輸送効率が劣化してしまいます。この壁面近傍にへばりつく流体塊を引っ剥がし、固体壁から遠く離れ、まだ十分に物質輸送や温度輸送がなされていない流体塊と入れ替えないと、濃度勾配、温度勾配に依存する分子拡散による輸送効率を維持できなくなります。壁面近傍では、流れの接線方向速度成分が殆どゼロですので、壁面ごく近傍を流れる流体塊は下流に流されて行ってもいつまでも壁面ごく近傍に留まってしまいます。一般に面積効果と言われていますが、流体中に置かれた固体表面からの熱伝達率は、面積が小さいほど大きく、大面積になると熱伝達率が小さくなることが経験的に知られています。この面積効果は、何ら工夫をしないと固体壁面上での温度勾配が下流に向かって小さくなってしまうことに起因しています。
生命の誕生は流体の中で生じたと考えられています。流体の中でどのように代謝を行い、自己と同じ形質を持つ新たな生命体を繁殖させたかを考える科学者は、環境としての流体をどのように深く洞察していたか、興味がそそられます。