第七十八夜 保存

 物理学では良く保存則が基礎となります。エネルギー保存則、質量保存則、等々です。流体運動の支配方程式も、運動量の保存と質量の保存から導き出されます。物体内や空間内の熱の伝わり方も熱エネルギーの保存という概念が基礎になっています。保存という概念は、ある種の限定された空間とセットになっています。無限に広い空間ではなく、限られた大きさの空間、さらに言えば、その限られた空間が極限まで収縮され、体積がなくなってしまった「点」において、保存が成立するという理屈になっているようです。物理学でいう保存は、限定された空間には内外を区別する境界があって、その境界をまたいで、出入りがあっても、その出とその入りの量は等しいことを言っています。出入りが等しいので空間内の量は増えもせず減りもしません。誤解されやすいですが、その限定された空間で、生成があれば、空間内の量は増えます。保存則が保証しているのは、境界をまたいで外から内に入ったものと空間内部で生成されたものの総量(和)と内から外に出る量が等しいことです。生成ではなく、消散がある場合も同様で、境界をまたいで外から内に入った量は、空間内部で消散されたものと内から外に出る量の総量(和)に等しいことを言います。

 物理量の保存を考える際、生成もしくは消散がある条件で空間内部での量の変化を考える場合、忘れてはいけないことは、一般的な物理法則で考えている保存の成立は、考える空間が十分に小さい場合であることです。対象とする空間が比較的大きく、空間内に物理量の大小がある、すなわち対象とする量が空間内で均一ではなく分布がある場合、保存則が成り立つような量、例えば熱エネルギーや混合物における溶質に関しては、その空間内における保存の概念の適用は、微小空間で考えるほど単純ではなくなります。まずは、空間内で定義される物理量の代表性に問題が生じます。例えば、保存を考える物理量を空間内のどの位置で測るか(定義するか)という問題が生じます。空間内で物理量に大小の変化があるので、測る位置(定義する位置)を恣意的ではない、万人が納得できる位置に決めておかなければ、物理量を測る人によって、空間内の物理量を代表する値が違ってしまいます。一般的には、物理量を測る(定義する)位置に関して標準的な位置を決めて測るというよりは、その空間内の物理量の総量で、代表量とするのが保存則を考えるには便利でしょう。ただ、空間内の総量よりは、それを空間体積で除して体積平均値で物理量を表すことの方が、空間での代表性のある物理量を表すのに便利と思われます。話が飛びますが、天気予報では、様々な地域(地点)での気温や湿度などが言及されます。しかし言及された値は、本当にその地域(多分空間的広がりがある地点と思われますが)を代表する値になっているのでしょうかと、つい考えてしまいます。小学生が教師にただ「教室の温度を測って」と指示された時、指示された小学生はその教室の代表性のある温度を本当に測定できるのかしらと、考えてしまいます。

 考える空間が比較的大きく、保存を考える物理量に関して空間的に分布(場所による変化)がある時、さらには、その物理量に対して生成や消散がある時は、どのように保存を考えるかに関しては、少し慎重に考える必要があります。結論的に言えば、十分に微小な空間内で、空間境界をまたぐ量の出入りの他、生成や消散があっても、保存を考えることは容易であったのに対し、単純な保存を考えることはできなくなります。もう少し、詳しく述べると、物理学で考える微小空間や点において考える保存則においては、保存される物理量は瞬間、瞬間で、すべてその微小空間や点で保存されており、保存が満足されない状態から満足される状態への時間変化を考える必要がありませんでしたが、考える空間が比較的大きく、保存を考える物理量に関して空間的に分布がり、さらにその量に対して生成や消散がある場合は、保存状態に至る時間的変化も考える必要が生じます。空間内で対象とする物理量が蓄積して増えたり、逆に移動または消散して減少したりして、物理量の入りと出、生成と消散の足し算がゼロとなるような単純な保存が成立しなくなります。

 ここまで、筆者の抽象的な話に付き合ってくださった皆様の我慢強さに感謝します。もう少し身近で具体的な例を考えてみたいと思います。まずは身近にある室内空間内における空気中に含まれる汚染物質の濃度に関して、考えてみます。当然のことですが、汚染物質も質量を持った物質ですから質量保存の大原理が適用されます。汚染物質などの質量を持った物体だけでなく、室内における冷房や暖房時の熱エネルギーでも同様の議論ができますが、まずは、汚染物質の保存で考えてみたいと思います。

 室内に一酸化炭素を排出する卓上ガスコンロがあり、卓上ガスコンロから燃焼排ガスが室内に排出されている状況を考えます。家族や親しい人と鍋料理を共にする際に卓上ガスコンロの使用は欠かせません。卓上ガスコンロは、燃料の燃焼に伴い、二酸化炭素や水蒸気、さらには窒素酸化物も生成し、室内に排出しますが、燃焼過程の中間生成物として、一酸化炭素も微量ですが、燃焼排ガスとともに排出されます。この一酸化炭素は、血中の酸素担体のヘモグロビンとの親和性が高く、一酸化炭素を含む空気を吸引すると、血中の酸素輸送の能力を大幅に減少させて、死亡事故にもつながる危険な汚染物質として知られています。一酸化炭素の室内の環境基準濃度は10ppm(6ppm)程度と言われています。この程度の濃度以下で、たとえ一酸化炭素ガスが室内にあっても、人の健康に大きな影響はないと考えられており、一酸化炭素が排出される室内であれば、一酸化炭素濃度をこの値以下に保つ必要があります。

 1kW程度の熱出力のある卓上ガスコンロは大体、1時間に120cc程度の一酸化炭素、90ℓ程度の二酸化炭素を排出するそうです。定常状態において室内の空気と一酸化炭素は完全に混合すると仮定すると、1時間に120ccの一酸化炭素の放出に対して、その濃度を10ppm程度にするために必要な換気量(外気の一酸化炭酸濃度ゼロを仮定しています)は、12㎥/hになります。少し小さいかもしれませんが室内の面積が20㎡で、天井高さが2.4mぐらい食堂を考えます。室容積は48㎥程度になりますので、1時間に1/4回の換気を行う程度で、一応、室内の環境基準は満たされることになります。これをもう少し詳しく、保存則を用いて検討してみたいと思います。前提条件として、室内には0.00012㎥/hの汚染物が室内局所で、ある時期から突然発生し始めて継続的に発生し、室内には常時12㎥/hの空気が室内の局所にある給気口から室内に流入し、同量の室内空気が給気口とは別の局所にある排気口から流出しているというものです。局所で汚染物質が発生し、局所に空気流入があり、これとは違う局所で空気流出があるので、室内の汚染物質濃度は当然、室内で均質ではなく、空間分布も、時間的変化もあることが前提になります。さて、この室内汚染物質に関して、質量保存の大原則は、いかに考えると良いでしょうか。ここからは、保存則を考えるため、数式を使います。数式は質量保存を簡単に記述できて便利なので、数式が嫌いな方に申し訳がありません。ご寛恕のほどをお願いします。

 この場合の質量保存で考えることは、考える室内では汚染物質の消散がないこと、汚染物質は換気による排気により室内から除去されること、室内の濃度が時間進行に従って変化すること等になるかと思います。室内の汚染物質の総量に関して、保存則を考えます。総量を考えるので、室容積V㎥を乗ずれば、汚染物質の室内総量になる汚染物質の室内容積平均濃度Ca(t)㎥/㎥の時間変化を考えるのが便利になります。時間変化は、室内容積平均濃度以外は、時間変化によりあまりその値が変わらない短い時間間隔Δt(h)で考えます。室内では汚染物質の発生強度q㎥/hがあり、換気量Q㎥/hにより、汚染質濃度ゼロの空気が流入し、排気口からは排気口の汚染質濃度Ce(t) ㎥/㎥の汚染物質を含む排気により汚染物質が室内で除去されます。ここで、二つの仮定を導入します。一つは、排気口からの排気風量は、厳密にはQ+qですが、q/Q<<1すなわち、汚染物質のガス発生量は換気風量に比べて極めて小さく、換気風量を考える場合は、実質的にq/Qは、ゼロとみなして排気風量はQとすること、今一つは、短い時間間隔Δt(h)での排気口の汚染質濃度の時間変化ΔCe(t)(=Ce(t+Δt)- Ce(t))<< Ce(t)すなわちΔCe(t)/Ce(t)はゼロとみなして短い時間間隔Δt(h)の間で、排気により失われる汚染物質を考える際は排気濃度Ce(t)は一定と考えることです。もちろんこの仮定を導入しなくても考察はできますが、ことを簡単に説明するために導入する仮定です。更に換気効率指標E(t)=Ca(t)/ Ce(t)を導入します。換気効率指標E(t)は、時間の関数にはなりますが、室内容積平均濃度と排気口の汚染質濃度の比になります。この換気効率指標E(t)の導入により、室内容積平均濃度Ca(t)は、換気効率指標E(t)と排気口の汚染質濃度Ce(t)の積に置き換えて、保存を考えます。ここで三つ目の仮定を導入します。すなわち、換気効率指標E(t)=Ca(t)/ Ce(t)は、時間の関数ですが、汚染物質の発生位置と室内の気流性状が時間的に変動がない場合は、換気効率指標も時間変化はあまりなく定数E=Ca(t)/ Ce(t)と仮定します。

汚染物質の保存を式で表すと、以下になります。        

 E・ΔCe(t+Δt)・V=(q-Ce(t)・Q)・Δt
書き換えると
ΔCe(t+Δt)/Δt=-Ce(t)・Q/(V・E)+q
上記の式は、Δtを無限小に小さくする過程で、線形の微分式となり、比較的容易に積分できて定常状態での積分定数も加味して、排気濃度Ce(t)は次式で表されます。
Ce(t) =(q/Q)・(1-exp(-(Q/(V・E))t)
従いまして、室内の汚染物質量の総量を表す室内容積平均濃度は
Ca(t) =E・Ce(t) =(E・q/Q)・(1-exp(-(Q/(V・E))t)
となります。        

 室内の汚染物質濃度の時間変化を表すこれら二つの式を見ますと、tが無限大すなわち、定常状態で排気口での汚染質濃度は、発生量を換気量で除したq/Qになり、室内容積平均濃度はこれに換気効率指標を乗じた濃度q/(Q/E)になります。換気効率Eの持つ意味は重大です。(Q/E)を実質的な換気量と考えることも可能です。例えば、汚染質の発生が、排気口の近くにあり、室内で発生した汚染物質が室内に拡散することなく直ちに排出されてしまえば、室内の大部分の汚染質濃度はゼロ近くの低い値になります。この場合、(Q/E)が大きく、実質的な換気量が大きいと言っても良いかもしれません。換気量を室容積で除したQ/Vは単位時間当たりの換気による室内の空気の入れ替え回数で、換気回数と称されます。これは、室内の汚染質濃度がゼロから定常状態までに移行する時間スケールを表しますが、濃度の時間変化を表す式を眺めますと、この時定数はQ/(VE)であり、Eが小さくなると、時定数は大きくなり、速やかに定常状態になることが分かります。この点でも換気回数が実質的に大きくなると考えてもよさそうです。        

 一方、室内の容積平均濃度が排気濃度よりはるかに大きくなり、1より大きくなることもあり得ます。例えば室内に置かれた箪笥の中やウオーインクローゼットの中など室内の空気流通が限られた場所で汚染物質が発生することを考えてみてください。室内の給気口からの空気がなかなか到達せず、また、空気流通も限られた場所などで汚染物質が発生し、その汚染物質が室内全般に拡散しない状況であれば、その場所の汚染物質濃度は際限なく上昇し、室内の容積平均濃度は排気濃度に比べていくらでも上昇しうることが想像できると思います。箪笥には隙間があり、ウオーインクローゼットや、室内の天井部などにも隙間があり、そうした部分は室内空気との空気流通があり、室内空気と一体となって室内の総汚染質量が時間とともに増加していく状況は容易に想像できると思います。室内の容積平均濃度は室内の換気性状が悪ければ、室内の排気濃度よりいくらでも上昇し得るのです。この場合、室内の換気に関する実質的な換気量Q/(VE)が減ったと考えることもできますし、換気回数を考える際の実質的な部屋の容積(VE)が大きくなったと考えることもできます。いずれにせよ、実質的な換気回数は小さくなってしまうと考えられます。

 室内での空気汚染は、卓上コンロから発生する一酸化炭素だけでなく、コロナウイルスに罹患した人が室内空気に排出するコロナウイルスの飛沫など様々な汚染物質を考えることができます。単純な保存則を用いた考察でも明らかなように、室内の空気汚染を単純に室内の排気濃度だけで考察した換気性状(排気濃度と室容積濃度が常に等しいという大胆な仮定に基づきます)だけでは、不十分な場合も多いと思われます。        

 ただし、ここで示した換気効率指標(汚染質放散がある場合の排気濃度と室容積濃度の比)は汚染質の発生位置が変われば換気効率指標の値も変わってしまう単純なものであっても、その算出や予測を簡易に行うことはほとんどできません。室内気流と室内の汚染物質の空間分布をも解析する流体シミュレーション(CFD)が無くてはならない解析ツールであり、実際、良く用いられていると思います。