前回のコラムでは筆者が大学に進み建築環境を専門にして後の人生(の大半)を送ることになったいきさつをお話ししました。
今回はこの続編をお話しさせていただきます。W大K教授の建築環境原論を集中的に勉強した経緯から、当然4年のゼミ配属はK教授の元でと思っていました。しかしある時「熱くなる大都市」という書籍を手に取り、その内容に興味を抱き、ゼミ(卒論)は著者である都市環境が専門のO教授のご指導を受けることにしました。この選択により結果としてW大では建築環境&都市環境の両方を学ぶことができました。その後大学院進学を希望し、指導教官のO教授に相談したところ、T大の大学院を進められやや戸惑いながら受験したところ幸い合格することが出来ました。ここでT大のM教授の研究室(建築都市環境専攻)に配属になり修士2年、博士4年の計6年の大学院生活を送ることになりました。
しかしこの大学院生活は、ある意味で筆者の人生の中で最も過酷?とも言える6年間となりました。研究面では日々の実験や解析に追われる研究活動の厳しさもさることながら、論文作成時が特に大変で何回も叱責されながらの修正は当時の筆者には大変厳しいものでした。研究面以外でも筆者は研究室運営業務を複数担当しており、その段取りの悪さ等で度々叱責されました。苦難の日々を少しでも打開する意味も込めて博士2年の時に結婚し、(仲人はM教授、主賓として恩師のW大O教授にご出席いただきました)また博士3年次には長女が生まれ「女房子供持ちの学生時代」を送ることにもなりました。毎日時間に追われているはずの日々でしたが、実は麻雀は相変わらずやっていました。現T大名誉教授のK先生、TH大のM先生(両先生とも現在CFDの大家です)達と頻繁に卓を囲み、たびたび行った徹夜麻雀も懐かしく思い出します。
当時研究室に在籍していた院生、研究生も筆者とほぼ同様「苦難の経験」をしており彼らとは現在でも「戦友意識」を共有しています。時々行う戦友との飲み会では当時の数々のトピックス(特に叱られた自虐ネタ)は爆笑続きで常に大盛り上がりとなります。
また、この6年間で先輩、同僚、後輩、他大学の各先生や民間企業のバリバリの方達と数多く触れ合う機会が得られ、豊富な人脈形成ができました。このことはその後の筆者の人生において大変貴重な財産となったことは言うまでもありません。
さて本コラムのテーマである建築環境解析の当時の状況についても触れたいと思います。
M研究室では気流関係を中心として室内と屋外にテーマが大別されていました。筆者は屋外関係を主テーマとし、(1)風洞実験系(風洞による温熱解析やビル風解析とその評価)と(2)風データ解析処理系(風観測、気象データ解析、強風と降雨に関する極値解析等)について研究しDR論文としてまとめました。研究室員全員が参加するゼミでは統計流体力学、乱流理論、スペクトル解析等を勉強しました。境界層理論や乱流の奥深さは大変興味深いものでその知見は筆者のDR論文内にも一部反映しました。
CFDは筆者が博士2~3年のころ研究室で室内Gを中心に本格的に始まりました。
当時筆者はCFDには(DR論文の範囲外であったため)直接関与はせず研究室内でのCFD研究を真横で見守っているという状況でした。そこでは乱流等の理論式を検討するだけではなくいくつかのCFDコードの徹底的解読や問題点の発見、改良と適用が積極的に繰り返されていました。当時CDFは先行している他大学もありましたがM研究室はあっという間に我が国のCFD研究の先頭グループに立ちました。M教授の研究管理能力(構想力と推進力)には驚くべきものがありました。特に、研究テーマの選択と発表論文の構成と展開は見事なもので、当時のある他大学の先生が苦笑しながら「数多くあるCFDのいずれのテーマでもM軍団が通った後はぺんぺん草も生えない」と評されていたことを覚えています。
筆者は大学院卒業後民間建設会社に入ってからCFDを後追い状態で開始することになります。大学院卒業後何とか民間会社やいくつかの大学で働くことができたのも上述の6年間のM先生の厳しいご指導の賜物と思っています。その後M先生とは数々のプロジェクトや委員会で長年にわたりご一緒させていただきました。M先生はいまもお元気でご活躍されています。
振り返ってみると筆者の「建築環境工学との出会い」は、大学&大学院を通しM先生をはじめ「数々の著名な環境研究者との出会い」であったという印象を強く感じています。