筆者が大学院に入って風について本格的に勉強しようとした際、指導教官のM教授から渡された資料の一つに(故)井上栄一博士の「地表風の構造」という論文がありました。井上博士は当時農林省農業技術研究所の技官をされており、農作物の成長という観点から地表風を研究されていました。迫力満点の先生で、ある年の風のシンポジウムで「風洞の風と実際の風は何が違うのか?」と恩師のM教授に論戦を挑まれた状況を今でも思い出します。本論文の発表は1952年で筆者の生まれる前のものですが、ネットで調べると今でもこの論文が検索に引っかかるのは驚きです。同博士の「風は建築を邪魔ものと捉え、建築は風を邪魔ものと捉える」という発言を今でも記憶しています。同論文の風の捉え方は建築のものとは異なりますが、地表風の構造の真髄?が記述されているという印象を今でも持っています。
このような経緯もあり、その後筆者は風を単に建築からの視点だけではなく他の様々な視点で捉えることを心掛けるようにしました。そのひとつが気象スケールでの大気乱流解析です。この分野へアプローチする直接のきっかけは筆者のT 建設入社数年後に突然舞い込んできたセミナー案内でした。このセミナー案内はYSA (Yamada Sience and Art)という会社からのものでした。同社は大気乱流で世界的に有名なMellor-Yamadaモデルの開発者である山田哲二博士の会社でした。本セミナーに興味はあったものの当日都合悪く欠席したのですが、後日セミナー受講証明書が届いたことには苦笑してしまいました。山田先生はアメリカ在住でしたが筆者と同じく、元々関西出身の先生でお話すると関西風なまりが若干あり大変親しみのもてる先生でした。その後、何回か情報交換させていただき、同社と契約し同博士開発のプログラムをソースコードとして購入しました。
山田博士とはその後長くお付き合させていただき、アメリカ出張時にはアルバカーキ―(米国南部)のご自宅兼事務所にお伺いしたことがあります。奥様やお嬢様含めご家族でお迎えいただきました。また、山田先生と当時から親交のあったプリンストン大学の真鍋先生(ノーベル賞受賞)ともご一緒に会食もさせていただきました。(このあたりは第17回コラムでも若干触れました)
この大気乱流解析プログラムでは建築周りの気流解析等はできないため、筆者らの日常の解析業務のメインにはなりえませんでした。業務に使ったのは唯一国土庁(当時)の依頼で東北地方の広域風調査マップを作製したことくらいでした。しかしプログラムが解読可能なソースコードであったためその後の数値気候モデルによる都市温熱解析や乱流モデルの勉強には大変役立ちました。
建築・都市スケールの風と気象スケール(広域大気乱流モデル)の風とでは方程式系はある程度類似しますが、異なる点も多々あります。例えば気象スケールでは地球の自転にともなうコリオリ力は必須ですが、建築スケールでは通常これは無視します。さらに気象スケールでは上空~広域の気圧、気流, 温位, 湿気, 放射など多くの物理要素が複雑に関連し、それらを連成して始めて風を取り扱うことが可能になります。一方建物周りの気流に関しては通常の大気乱流モデルでは解析不能です。ある時山田博士に建物周辺気流の解析事例を紹介したところ大変驚かれたことに逆にこちらが驚きました。博士にとって建物周りの3次元的気流の挙動は新鮮に映ったようで、その後博士は建築スケールの解析にもチャレンジされたようです。
建築で気象解析と考え方が類似するのはヒートアイランド解析のように熱を考慮する場合です。この場合、両者(気象スケール&建築スケール)では地表面における熱収支の考え方はほぼ共通になります。上空方向は建築スケールと気象スケールで大きく異なりますが、地面はともに同じだからです。この地表面境界条件は建築系の解析においても最も大切な境界条件の一つであり、気象分野での考え方が大いに参考になります。
建築分野からみた大気乱流解析の意義はこの両者の接点(接続)にあるとも言えます。両者のテリトリーを補完しあえるからです。この大気乱流解析コードの入手と利用は筆者らのCFD解析の幅を大きく広げ、解析ツールの引き出しを増やすことに繋がりました。しかし、何のためにどのツールをどう使うかについてはいつもお話している「目利き」が重要であることに今後も代わりはないようです。