ロシア5人組の一人のムソルグスキーは、管弦楽曲『禿山の一夜』、ピアノ組曲『展覧会の絵』などの作曲者として日本でも有名です。
『展覧会の絵』はフランス人作曲家のラヴェルによりオーケストラ用に編曲されたものが良く演奏されます。筆者は、このオーケストラ
化された『展覧会の絵』のなかの『サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ』を、富裕な人と貧しい人の対立を象徴するものとして、
良く思い出します。オーケストラ化された『サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ』は、金持ちのサムエル・ゴールデンベルクと貧
乏人のシュムイレの口論を描いているように思われますが、低音の弦楽器パートによる威嚇的なサムエル・ゴールデンベルクの旋律と、
甲高く弱弱しくそして悲しい金管楽器により表現されるシュムイレの旋律の対比が、色彩豊か美しく、かつ現実社会を皮肉に描いている
ようで、感慨深い曲となっています。
前回の東京オリンピック前のことですが、筆者が通った小学校では、給食の時間に児童が運営する放送クラブがいつもクラシック音楽
を流していました。これは、文部省の教育指導要領で小学生が学ぶべき西洋音楽を指定している関係で、小学生にクラシック音楽を親し
むようにとのことだったと思います。最もポピュラーなものは、サンサースの『動物の謝肉祭』中の『白鳥』で、今でもこの曲を聴くと
パブロフの犬の条件反射で、よだれが出てきてしまいます。ムソルグスキーの『禿山の一夜』も、あまり食事中にゆったり聞くような曲
ではありませんが、たまに給食の時間に全校放送で流されていました。子供たちが喜びそうな派手な曲ですので、この曲が好きだという
友達も多かったように思います。
小学校のこうした情操教育のお陰で、中学に進学し、お小遣いでLPレコードを買えるようになったころは、今でも値段を覚えています
が、2300円もするクラシックのLPレコードを年数枚の割合で自分用に購入しました。最初に購入したものは中学1年生の際の音楽鑑賞で流
されて興味を持ったベルリオーズの『幻想交響曲』です。これも楽曲が表現している風景が容易に想像でき、とても分かりやすく、今でも
好きな曲の一つです。ポピュラーも嫌いではありませんでしたが、ラジオやテレビで聞く機会も多く、お小遣いをはたいてまでレコードを
購入する元気はわかず、レコードの購入はクラシックLP一本でした。購入したものは、懐かしさもあり、小学時代に聞きなれていた作曲家
の作品です。父も相応のレコード音楽愛好者でパーシーフェイス楽団やビリーボーン楽団のようなアメリカンポピュラーのLPをそろえてい
ました。父は、モーツァルトやベートーベンのような教科書に出てくるような大作曲家の音楽LPも、多少、揃えていましたので、筆者のお
小遣いでの購入リストは、父との重複を嫌い、小学校や中学校の音楽の時間に習って名前は知っている作曲家の作品で、情景描写的で分か
りやすいものが多くなりました。ムソルグスキーの『展覧会の絵』も中学になってから、カラヤン指揮のベルリンフィルのものを買いまし
た。今から考えれば、「気のせい」程度のことだったと思いますが、当時、筆者は、ドイツ・グラモフォンのLPは、録音技術がほかのレコ
ード会社に比べて格段に優れており、高音の伸びが綺麗で音色が艶やかで輝くようだと信じていました。そのため、ほかのレーベルのLPを
購入する気になれませんでした。若者によくある、意味のない思い込みでしょう。そのため、筆者のLPライブラリーは、どうしてもベルリ
ンフィル一色になります。また、特にカラヤン指揮が好きだと思っていたわけではないのに、新しい録音はカラヤン指揮のものが多く、必
然的にカラヤン指揮のベルリンフィルのLPが増えました。当時の多くのLPはその後、デジタルリマスター版ということでCD化されています。
今、そのCDを聞いても、中学時代に聞いた、あの艶やかな音色は再現されません。CDはアナログレコードより音質が良いはずなのに、奇妙
なことです。筆者の聞いた中学時代のあの艶やかな高音の音色は幻だったのでしょうかと残念です。
さて、ムソルグスキーのオーケストラ化された『展覧会の絵』なかの『サムエル・ゴールデンベルクとシュムイレ』に戻ります。あの甲
高くまくし立てるシュムイレの旋律を聞くたびに、虚勢を張っている悲しい人の姿が目に浮かびます。流体シミュレーションに関わる研究
発表会などで、シミュレーション実行条件の違いがシミュレーション結果に影響を及ぼしているように見える結果を、時々見かけることが
あります。実行条件の違いとは、打切り誤差の影響で過度の数値粘性が働いているように感じられる場合や、分散誤差の影響でチェッカー
ボードエラーが表れているように見える場合など、様々です。こうした際に、質問を受けてシュムイレ的な応答をする研究者を少なからず
見かけます。自らの豊富な知識を見せびらかすかのように、サムエル・ゴールデンベルク張りの質問者の態度にも問題がありますが、シュ
ムイレ的な応答をする研究者の経験と知識の貧しさにも、ため息が出ます。質疑を繰り返して学の向上を図ろうとする清々しい、質疑を見
たいものだと思います。