「持たず、作らず、持ち込ませず」などというと、日本の核兵器に対する非核三原則の国会決議に聞こえます。
隣国が核兵器とこれを目的の場所に運搬して使用することを可能にしている時に、これを阻止する政策的な手段と
は別に、物理的手段の確実性を欠くことに不安を覚えるのは当然のことでしょう。われらは「平和を愛する諸国民
の公正と信義を信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」することを内外に宣言しています。この決意
は崇高です。しかし「未来の平和を愛するがゆえ、その実現のために自他の多少の物理的損失は厭わない。」と考
えているらしい諸国が実際に存在する時、われらの安全と生存を保持するための信頼が無条件で成立するとは思え
ません。「持たず、作らず、持ち込ませず」の原則は、平和を愛する諸国民の公正と信義が確実に信頼できる状況
にはないと思われていた時代に、なされた国会決議です。心から信頼することのできない隣国がありながら、こう
した宣言ができたのは、われらの安全と生存の保持を約するに足る実力を備えた信頼できる他国が存在したためで
しょう。自ら招いて実力の違いから徹底的に叩きのめされながらも、その後は寛容な姿勢を示した他国の保護、た
だし保護というより、万が一ことが起これば当事国を確証破壊するという平和とは程遠い抑止の約束のようですが
、これを信頼した故にできた三原則なのでしょう。自分は「持たず、作らず、持ち込ませず」と言って資源を他に
割り振りながら、信頼し保護を求める国には、「持ち、作り、持ち込む」ことを求める、虫の良い姿勢といわれる
恐れを残していることが少し残念ですが・・・。信頼は再現性で養われます。交わした約束を納得のいく理由を示
すことなく破るようでは、信頼は生まれません。理由なく交わした約束を破る妻を、夫は許しても信頼しません。
納得できる理由を示さず約束を破る子を、親は許しても信頼しません。信頼に一方通行はありえません。相互に
give and takeの相互通行がなければ、信頼を醸成することはできません。かの大国や隣国も含め、われらの安全
と生存を保持しようと決意できるほどの公正と信義が信頼できる諸国が本当に存在するのであれば、喜ばしいことと思います。
さて今回、筆者が、「持たず、作らず、持ち込ませず」で意図するのは核兵器のことではありません。流れによ
る拡散を専門とする人にとって重要な課題である環境問題です。環境問題には、地球規模、国家規模、都市規模、
建物規模、室内規模など様々なスケールがあります。どれも共通して空気や水などの流体による汚染物質の複雑な
輸送が問題となります。流体シミュレーションの活躍の場です。しかし、輸送は現象をより複雑にさせているだけ
で、問題の解決への寄与はあまりありません。「持たず、作らず、持ち込ませず」の三原則が環境問題の基本にな
ります。環境汚染物質は、人が人為的に作り出したという点では兵器と同じです。ただ環境汚染物質を積極的に作
ろうとした確信犯はいないでしょう。しかし環境汚染物質が生じてしまうことを知っていながら、これを黙認して
発生させてしまうことは、「未必の故意」ともいうべきもので、積極的に汚染物質を作ろうとした確信犯と、罪の
重さは全く同じです。こうした悪人は、いつの世にも多数います。「知らなかった」と、とぼけるだけ、より悪質
な気もします。このような悪人が少数ながらいる中で、汚染物質ができることに気付かず、これを生み出してしま
う人もいます。故意犯ではなく過失犯ですので、罪は大幅に軽くなるようです。環境問題では、このような過失犯
が溢れています。全く油断も隙もあったものではありません。「平和な環境を愛する関係者の公正と信義を信頼し
て、われらの安全と生存を保持しようと決意する」ことなど全くできません。自身がコントロールできそうな建物
内や室内などにおいてさえも、環境汚染物質を「持たず、作らず、持ち込ませず」などといったソースコントロー
ルは、努力目標であって完全な実現などは遠い先にも実現しそうもない難しい課題です。環境汚染物質を「持たず、
作らず、持ち込ませず」など言う標語は、まさに「絵に描いた餅」、実現の難しい建前化しています。なんだか似
てますね。汚染物質の拡散シミュレーションするたびに、汚染物質のソースさえなければ、流れがどんなにいびつ
で複雑であっても、どこもかしこもすべて純潔なのにと思いつつ、矛盾に満ちた現実を何とか解決しようと努力している解決不能な世界を思い出します。