「イギリス人は歩きながら考える。フランス人は考えた後で走りだす。そしてスペイン人は走ってしまった後で考える。」という小話がある。歩きながら考えるということは、実行と思想が離ればなれにならず、平行しているということである。ドイツ人は考えた後で歩き出し,歩き出したら考えない。笠信太朗の「ものの見方について」のなかの一節です。今から70年ほど前、第二次世界大戦が終結して5,6年しかたってない時期の、朝日新聞の論説委員の笠(りゅう)の評論です。
70年ということで、話がわき道に入りますが、著作権の保護期間が気になってしまいました。著作権の保護期間は、昔、公表後50年でしたがその後、著作者の死後50年となり、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)による改正著作権法の施行により、著作者の死後70年になっています。笠の死去は1967年12月で50年保護の適用が、2018年のTPPによる改正著作権法の適用に届かず、2017年末に保護期間が切れているようです。すなわち、まだ、死後70年を経過していませんが、笠の著作物に関しては、著作権による制限なしに、誰でも自由に利用することができるということになります。小説などの創作と、報道や評論などでは、同じ著作でもジャンルが異なります。笠が報道に関わるジャーナリストとして、著作の保護期間の長短をどのように考えるのか、本人に聞いてみたい気もします。いずれにせよ、現在、笠の著作は、ギリギリ、著作権保護の制約を免れており(と筆者は判断しますが)、著作の保護を考慮することなく、自由に引用、使用できるようです。
笠の「ものの見方について」は、いわゆる第二次世界大戦後の日本の教養書のひとつとして、読むことが中高生の推薦書のひとつとして推奨されていました。筆者も、いつだったか覚えていませんが、これを読んだ記憶があります。ただ記憶に残っていることは、内容ではなく、著者の「笠」を「りゅう」と読むことに対する驚きで、中国では昔、笠のことを「りゅう」と発音したのかと思ったことでしょうか。でもその頃、俳優の笠智衆という名は知っていたはずで、同じ、笠(りゅう)という姓ながら、なぜ故、笠信太朗の、笠に違和感を持ったのか、我ながら不思議です。
ところで、笠信太朗と同じ朝日新聞の記者の評論などというと、全共闘時代(戦後のベビーブーマー時代)のほんの少し後の世代の筆者などには、本田勝一が思い出されます。筆者は、本田勝一の評論は嫌いでしたから、これを熱を入れて読んだことはありません。これはそのころ筆者が傾倒していた山本七平が、朝日新聞記者、本田勝一を名前を挙げて強く批判していたことにもよります。山本七平は、本田勝一が事件を、事実か否かしっかりと検証もせず、自分の思想に都合が良ければ、たとえ虚構に基づいていたとしても厭わず利用し、自説を補強する評論を度々、行っており、煽情的に影響力を行使していると批判していました。筆者などは、この山本七平の論説に共感し、同じ朝日新聞に所属しているというだけで、笠信太朗なども、本田勝一とは方向は違うかもしれませんが、頭でっかちな評論をする同類のような気がしたのかもしれません。ちなみに、自分で新聞を購読するようになってからは、一度倒産した毎日新聞を手助けするつもりで、倒産後の毎日新聞を数年間、購読したことがありますが、いわゆる日本の三大紙と言われている朝日、毎日、読売の3大紙を積極的に購読したことはありません。
脇道にそれてばかりで申し訳ありません。あちらこちらと飛んでしまうのは連想が連想を生む筆者の頭の構造ゆえですので、お許しください。さて、最初の「歩きながら考える」に戻ります。「イギリス人は、歩きながら考え、フランス人は、考えた後に走り出す。スペイン人は走ってしまった後に考える。」などといった小話が、本当にその国民性を言い表しているのかしらと、疑問に思ってしまいます。国民性などと言って、よその国の国民性にレッテルを貼ることには抵抗を覚えます。どの国でも、人々の感じ方は多様な気がします。強いて言えば、政治家や文化人など、海外に名の知れたその国の代表的な人の個性を、国民性として言い表している気もします。ドイツやソ連の独裁者、ヒトラーやスターリンは、特異かもしれませんが、ある意味、ドイツ人やロシヤ人の国民性を代表している傾向はあるのでしょう。
ただ、義務教育期間の教育方針は、確かにその国の国民性に影響を与える気はします。日本人の公衆道徳が、時々、海外で賛美されたりして、日本人の美徳と言われたりすることがあります。ほんとでしょうか? 日本人の公衆道徳は、日本人の民族としての固有の国民性というよりは、義務教育期間の小中学校での集団教育の結果が示されているかもしれません。良い悪いは別にして、義務教育期間の集団教育の方針が、日本のいわゆる国民性に表象されているのでしょう。ある意味、恐ろしいことです。さて、「歩きながら考える人」、「考えた後に走り出す人」、「走ってしまった後、考える人」が、自分の周りにいるかと考えれば、「歩きながら考えるような立派な人」は、なかなか思い当たりません。しかし、「考えた後に走り出す人」や「走ってしまった後、考える人」は、いっぱいいる気がします。笠信太郎風に言えば、日本にはイギリス人はほとんど見当たらず、ラテン系のフランス人とスペイン人だらけという気がします。筆者の周りを見渡すと、筆者の家内は、「最初は考えますが、考えた後に走り出すとその後、考えません」ですし、筆者は、「考えるより先にまず走ってしまい、その後、反省も含めて考える人」です。例外も多いかもしれませんし、レッテル貼りは好ましくありませんが、私の周りの女性は「考えた後に走り出す人」ばかりで、男性は、「走ってしまった後、考える人」ばかりの気がします。両者が一緒に暮らすと、衝突の繰り返しです。得する方は、どちらでしょうか。「女性」です。「走ってしまった後、考える男性」は、衝突後に反省し、衝突回避のためには、折れることも必要と考えます。衝突後も走るだけで、考えない女性には、何を言っても通じません。
「歩きながら考えるということは、実行と思想が離ればなれにならず、平行しているということである。」と笠は言っています。「考える」ことは「思想」を意味すると言っています。「考える」ということは、原因と結果を分析評価して、良い結果をもたらすよう、原因となる行為をしようということです。工学的に考えれば、これは制御であり、科学的に行うことができます。しかし、笠はその過程を「思想」を通じて行うと言っているようです。筆者など、この「思想」という言葉に違和感を覚えます。「思想」とは、人間社会の様々な事象に対して、因果を、主観的、直感的に思索し、その主観的な評価を反省的に洗練して概念としてまとめること、とも定義されています。筆者は、技術者の端くれです。自身が工学至上主義ではないと信じていますが、この「思想」を社会に反映させることに危うさを感じます。社会は多面性のある因果を客観的に、科学的に分析し、常にその分析を検証し、次に生かすという姿勢でこそ動かすべきでしょう。工学でなじみのあるPDCAサイクル(PDCA cycle plan-do-check-act cycle )を回すということに通じます。主観的であり、科学的根拠に乏しい「思想」が原因となって、社会のあまたの紛争や騒乱が生じたと感じているがゆえに、これを正直に主観的に論じる本田勝一や笠信太朗などの評論には、違和感を覚えます。個人の思想は、個人の自由です。しかし人間の社会の制御は、思想などではなく、科学的な方法で行って欲しいものだと思います。
流体シミュレーションを「思想」と思う技術者はいないと思いますが、これを多くの人が科学的に行っているかは疑問があります。結構、主観的に勝手に解釈している例をよく見かけます。山本七平なら、流体シミュレーションの解析者が、結果を実現象に本当に対応するか否か、しっかりと検証もせず、自分の解釈に都合が良ければ、たとえ怪しい結果であってもこれを厭わず利用し、解析者の解釈を意図的に補強しているだけと批判するかもしれません。科学的方法の実践は、謙虚にPDCAサイクルを回すことです。解析結果を主観的、直感的に解釈することも、ある意味、重要ではありますが、多面的に解析結果を調べ、その因果を検証し、客観的に進めることが、より良い解析につながるように思います。「走らないで」、「ゆっくり歩きながら」、主観的に解釈することなく、多面的な検証を行いつつ、流体シミュレーションを進めて欲しいものだと思います。