第四十二夜 運び屋

 クーリエ(courier)という言葉を耳にされたことがある方も多いと思います。クーリエの本来の意味は、外交官業務の一環で、外交文書を本国と各国の大使館・公使館等の間、あるいは大使館・公使館相互間などで運搬する業務のことさすようです。

 外交関係では、ウィーン条約という外交関係の慣行を定めた条約があります。これは、外交関係に関する基本的なもので、外交関係の開設、外交使節団の特権(外交特権)等について規定しています。外交関係のない国であっても、国際的な外交を行うにはこの条約を順守することが基本です。内容の大部分はおもにヨーロッパを中心として発展した国際慣習法を明文化したものです。これら諸国では1815年のウィーン規則など外交使節の階級および席次に関する成文法があり、これらを基に国連で協議して外交特権を含む外交関係全般に関する規則を成文化する条約として、1961年のウィーン会議で採択されて、今日のウィーン条約が制定されたと言われています。クーリエに関しても、この条約の中で定義されています。

 外交文書には機密文書も多く含まれることから、運搬業務に当たっては厳重に封印が施され "DIPLOMAT"(外交官)の文字が印刷された機内持ち込み可能な巾着袋「外交行嚢」(外交封印袋)が用いられます。一般に外交特権の一つとして、行嚢の中身に関しては税関などで確認が行われません。日本とは国交のない某国の大使館職員が、この特権を利用して世界中で禁輸品を密輸する犯罪行為を行ったことが話題になったことがあります。外交官の不逮捕特権を利用し、こうした行為が明るみに出たあと、国外に脱出し、自国に逃げ帰ったそうですが、処罰された形跡はなく、国ぐるみでこのような外交特権を悪用していたと疑われています。そうした国を、信頼することなどできませんが、武力などを用いて国際社会から排除するわけにもいかず、こうした国に対してもウィーン条約を順守した外交的接触を行う現実があるようです。しかし、こうした国の存在に多少の意義はあるかもしれません。娯楽映画の種を提供してくれます。偽ドル札の原板から様々な貴重品、果てはテロ用の兵器やむき出しの原爆の密輸などを行う悪役の某国に対し、正義の味方のスパイたちが様々に活躍する、サスペンス映画やアクション映画が、作成されて、楽しまれています。そういえば、ごくごく最近、クーリエを利用したわけではありませんが、日本の刑事被告人が、木箱に隠れて日本の税関をすり抜け、海外逃亡した事件がありました。あの事件も映画のネタとしては、面白いものができそうです。いつ映画化されるのか、楽しみですが、日本の官憲が、悪者になってしまっては、日本国民としては興ざめになるかもしれません。

 電子通信や暗号技術が発達した現在、クーリエを用いて、外交上の情報伝達をすることなど、伝達時間や、秘匿の脆弱性を考えても、あり得ないことのようにも思えます。多分、国ぐるみで悪事を厭わない某国に限らず、立派な民主国家の外交官も外交特権を悪用して、私腹を肥やすなど、その悪用はなくならないでしょう。クーリエに対する外交特権の現代化が求められている様に思えます。死語になりそうな外交上のクーリエですが、現在では、クーリエは違う意味で使われています。国際クーリエ便です。これは、航空機を利用して海外へ書類や小口荷物を配達するサービスです。国際宅配便とも呼ばれているようです。一般的な航空貨物と異なり、荷送り人、荷受け人が輸出入の通関手続きを行う必要がありません。海外の出荷元から国内の受取先まで、集荷+輸送+通関+配送まで、一貫して受け持つサービスです。「複合一貫輸送」とも呼ばれている民間の輸送サービスです。Door to Door(ドアトゥードア)とも呼ばれるようです。国際貿易関連の書類やサンプル輸送の多くは、このサービスを利用しているといいます。FedEx/UPS (米国)、DHL (ドイツ)、TNTエクスプレス (オランダ)などがその代表でしょう。筆者ももう30年以上昔になりますが、DHLを利用して、米国の大学人と書類のやり取りを頻繁に行いました。米国滞在中に日本から持ってきたPCが故障した際、そのPCを日本で修理するための輸送にも使いました。確か関税を支払う必要はなかったと思いますが、記憶にありません。その即配性に感心したことと、数千円程度で海外配達できる価格のリーズナブルさを思いだします。ただこの国際クーリエ便も、税関をすり抜ける可能性があります。薬や禁制品などの密輸に使われる可能性もあります。税関は、大学人はとかく倫理的に緩い、あるいは反社会的と考えているのか、筆者が、大学で受け取った多くの国際クーリエ便は、税関での開封検査を受けていました。最近は、開封検査は少なくなったと思いますが、X線による透視検査や麻薬犬や爆発物などから漏れ出す微量臭気に反応するセンサーによる化学検査などは、行われていると聞いています。

 クーリエに限らず、運ぶという行為は出荷元から受取先まで、運ばれるものが損なわれることなく受け渡されることが基本です。そもそも、人は運ぶという行為に対して、出発点から到着点まで、途中で運ばれるものがなくなったり、壊れたりすることを許しません。流体は、流体自身も含め物を運びます。建物や機械設備に備わったパイプやダクトは、流れるものを出発点から到着点まで確実に運ぶことが期待されています。私たちは、運ぶということには、決められた出発点から到着点まで、運ばれるものがなくなったり、増えたりすることなく運ばれることを想定します。

 しかし、パイプの中を流れる液体により熱を運ぶ場合は、途中で熱が逃げることもあり、棄損されることなく運ばれることはありません、建物の中などで空気を流すダクトが用いられることがありますが、液体を運ぶのに比べ、ダクトは気密性をしっかり確保して作成されるわけではないものもあり、途中でダクトの内外の圧力差により、漏れたり、ダクト外から空気が流入してくることもあります。しかし、これらの輸送も、やはり途中で棄損されることなく運ばれることが基本で、漏れたり、逃げたりするものは、全体の輸送量に比べて微小であり、あくまで許容値の範囲内に留められることが求められます。

 流れがパイプの中やダクトの中などで、これらパイプやダクトに沿って一方向に流れる場合は、始点や終点も明らかで始点から終点まで、運ばれるものが保存されて運ばれます。しかし、チャンバーや室内などの閉鎖空間の中で3次元的に流れる場合の、閉鎖空間内の始点と終点との間での輸送を考える際は厄介です。閉鎖空間の中で、適当に始点や終点を考えた際、始点から終点に至る輸送ルートは一つだけなのでしょうか。閉鎖空間内の循環流に応じて、たくさんの輸送ルートが存在しそうです。また、その間で運ばれるものは、保存されて、運ばれるのでしょうか。始点からの輸送ルートは、終点に届くものもあるかもしれませんが、終点を通過せず、閉鎖空間の出口に至ってしまうものもあるかもしれません。また、終点に到達する輸送ルートはすべて、始点を通るとは限りません。閉鎖空間の入り口から、始点を通らず、直接、終点を通るものも多いかもしれません。始点と終点との間が1次元的な流れであれば、輸送ルートは、これだけで、その間で運ばれるものは、保存されるでしょう。しかし、始点と終点を通るたくさんの輸送ルートが存在し、かつ、始点のみもしくは終点のみ通過するルートが数多くある場合、始点から終点まで、モノや熱が保存されるということはありません。このように一方向に流れるわけではない空間での流体による輸送の理解は、人々の運ぶという概念をそのまま適用して理解することが難しくなっています。