死者を悼む葬送の際、仏式の葬儀であれば読経、キリスト教や無宗教の葬儀であれば、ミサ曲(レクイエム)や葬送にふさわしい楽曲などが流されることがあります。後者の楽曲を流す場合は、喪主が指定することもあれば、死者が生前に希望を伝えていることもあります。筆者がこれまで経験した葬儀でも、楽曲が流されていたことも、たびたびありました。ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)の交響曲第3番「エロイカ」の第2楽章や、エドヴァルド・グリーグ(Edvard Grieg)の管弦楽組曲「ペール・ギュント」の第一組曲、第2番の「オーセの死」などが流されているのを経験したことがあります。ほかにも特に故人が好きだったということで行進曲などが流されていたこともあります。
個人的になり恐縮ですが、筆者の父も生前、ベートーヴェンの交響曲が好きで、自分の子供たちに葬儀の際は、「エロイカ」の第2楽章を流して欲しいと、我々がまだ子供のころから度々申しておりましたので、父の葬儀の際は、希望通り、「エロイカ」の第2楽章を流しました。ベートーヴェンの交響曲第3番「エロイカ」は、とてもポピュラーなので、様々な交響楽団、指揮者による演奏がレコードやCDとして出回っています。指揮者の違いによる演奏の表現はかなり異なります。筆者自身は、それほど指揮者の違いによる好き嫌いはなく、指揮者による表現の違いをあまり偏見なく鑑賞できると思っていますので、どの指揮者の演奏でも良いのではないかと思っています。生前の父は、脳溢血を発症して回復した後は音楽に関する興味を全く失ってしまい、レコードやテレビ、ラジオなどから流される音楽に全く興味を示さなくなり、自身の葬送の際に流す楽曲のことなどには全く言及しなくなりました。壮年の頃の父のこだわりに応えるには、楽曲名だけでなく指揮者や交響楽団などの演奏者も指名しておいて欲しいと、その時感じたことを覚えています。父の葬儀の際は、喪主の母にも特段の希望がなかったので、長男の私の好みで、ゲオルク・ショルティ(Georg Solti)指揮のシカゴ交響楽団の録音を使いました。ショルティ指揮の「エロイカ」は、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の録音の評価が高いようですが、残念ながら持ち合わせていなかったので、かないませんでしたが、良いお葬式になったと思います。また、父だけでなく、近親者も同様でしたが、脳溢血後に身体や知的機能がある程度回復しても、それまでの趣味や知的興味を一挙に失わせてしまう脳の病変の恐ろしさを実感させるものでした。
しかし、筆者個人としては、いくらその楽曲が好きといっても「エロイカ」(英雄)などという表題のついた楽曲を自分の葬送に使うという勇気は湧きません。ベートーヴェンは、交響曲第3番の表題として、当初、「ナポレオン」と楽譜に記載していたと言います。ただ、「ナポレオン」が皇帝になったと聞いて、ナポレオンに対して抱いていた期待が消え、「ナポレオン」を二重線で消して、「エロイカ」に書き換えたそうです。「エロイカ」の第2楽章を葬送用の楽曲として使用してほしいと願う人は、ベートーヴェンの気持ちを考えれば、自身が功成り遂げる前の謙虚な「ナポレオン」に比肩しうる人材であるという、自信を持った人であるべきという気がします。筆者は、自分のことはよく知っており、奢った希望を表明する勇気はありません。父とは違い、細かいところを気にする小人ということになるのでしょう。ただ、筆者もベートーヴェンの交響曲はお気に入りで、自分一人で鑑賞する際は、この「エロイカ」を時々、聞いています。
ところで、筆者もすでに一般的な定年退職の時期を過ぎており、同級生などの中にはすでにあの世に旅立った人もいます。その意味では、家族に自身の葬送の際に好きだった楽曲を流すように希望を述べていても良いかもしれません。しかし、お気に入りの曲はたくさんあります。西洋クラシックに限らず、ジャズやボサノバ、ソフトロック、Jポップ、日本の古典楽曲などジャンルも様々であり、一つだけ選ぶなどという好きな楽曲の希望の表明は難しいと実感しています。葬送での社会的な習慣を考えれば、あまりはしゃいだ曲や個人的な生きる葛藤や感情を表現するような曲はふさわしくないでしょう。一番の好みではなくても、葬送も一つの儀式ですから、正装した楽団員と指揮者が、居住まい正して、堅苦しく演奏する西洋クラシック音楽に落ち着きそうな気がします。
米国の作曲家にサミュエル・バーバー(Samuel Barber)という人がいます。生年は1910- 1981年で、筆者の祖父母の世代になりますが、ベートーヴェンやグリーグなどに比べると現代人ということになります。彼の代表的な作品に、「弦楽のためのアダージョ」があります。バーバーの作曲は、華麗な旋律が特徴で、新ロマン主義音楽の作曲家に分類されているそうですので、ベートーヴェンやグリーグなどのロマン派の楽曲と通じるところがあり、葬送の曲を選ぶとすれば候補になると思われます。バーバーの「弦楽のためのアダージョ」は、第二次世界大戦前に作曲初演されましたが、大戦後、米国で戦勝が決まった際に戦死者を悼む意味からでしょうか、この曲がラジオ放送で流され、その後のGHQ占領下の日本でも、その最初のラジオ放送で流されたということです。筆者がこの曲をNHKのラジオ放送で初めて知った時も、そのように解説されていたように記憶しています。米国で、この曲が有名になったのは、ジョン・F・ケネディの葬儀で使用されてからと言われています。そのため個人の訃報や葬送、惨事の慰霊祭などで定番曲としてよく使われているようです。ただ、バーバー自身はこうした使われ方に対し、「葬式のために作った曲ではない」と、不満だったという話があるようです。この「弦楽のためのアダージョ」はバーバー自身により、「アニュス・デイ」(Agnus Dei)という合唱曲にも編曲されています。曲の印象は「弦楽のためのアダージョ」と変わりませんが、楽器ではなく合唱ですから、死者のためのミサ曲(レクイエム)という印象はより強くなります。「弦楽のためのアダージョ」と、ほぼ同様の旋律ですので「アニュス・デイ」も筆者にとっては、「弦楽のためのアダージョ」とその印象に大きな差異はありません。「弦楽のためのアダージョ」が、現職で亡くなられた米国大統領を悼む式で用いられたことを考えると、もったいなくて敢えて希望は述べづらく、筆者には演奏時間も短い、「アニュス・デイ」が妥当かもしれません。自分自身の葬儀を考えるには、まだ相応の間があると信じていますから、今後、心変わりするかもしれませんが、自身の葬送にはこのバーバーの「アニュス・デイ」を希望したい気がしています。ただ、家族以外の人にまでこの曲の鑑賞を押し付ける勇気はありませんので、この曲を筆者の葬儀に流してほしいと表明する場合は、親族以外は参加しない家族葬という限定をつけたい気がします。しかし、死んでしまったら最後、自身の決定権などはなくなります。無視されそうな気もします。
ところで葬送は、死者との最後の別れをして火葬場や墓地に送り出すことです。送り出すことといえば、なんとはなく流れや輸送を連想してしまいす。流れで考えると、葬送は、sink(吸込み)に対応するのでしょうか。とすると、その反意語は誕生後の最初の親族のお祝いであるお七夜ということになるのでしょうか。流れでいえばsource(湧き出し)に対応する感じでしょう。流れを小さく分割される流塊の集まりと考えると、流れはこのsourceで生み出された流塊がsinkまでの間、ほかの流塊と集合離散を繰り返しながら移動し、sinkに吸い込まれていくというイメージになるのでしょうか。パイプやダクト内の流れは、sourceやsinkの面積がパイプやダクトの断面積と一致する大きな面になり、ここで流入、流出が生じることになります。このそれぞれの流塊は、sourceからsinkまで、ほぼ同じ時間で移動します。流塊の一生は、みなほぼ同じです。しかし、室内の換気による空気の流れなど、空間の大きさに対して小さな面でsourceやsinkが生じる場合は、流れは空間に生じる大きな循環流に集合、離散して複雑な流れとなり、流塊もsourceからsinkまで、3次元的に様々な経路で移動すると思われます。sourceで同時刻に生まれた流塊も、sinkに吸い込まれて空間内の移動を終了するまでの時間は、この様々な経路に対応して異なることが予想されます。パイプやダクト内の流れの流塊の一生がほぼ同じなのに対して、室内気流や反応漕の中のように大きな循環流が生じる流れでは、同時に誕生したとしても、sinkに吸い込まれて死去するまでの時間は、大きくバラツキます。この個々の流塊の生から死までの年齢や、任意の点での流塊の平均的な年齢は、流れのCFD(流体の数値解析)に基づく年齢解析(流れの媒体が空気であれば、空気齢)という解析手法で容易に把握することができます。また、個々の流塊の様々な経路、人生の道筋も、流れのCFD(流体の数値解析)に基づく、回路網的解釈で、これを把握することが可能です。
故人との別れは、親族でなければ葬送だけで終わりになりますが、葬送以前の、その故人の生きた歴史を振り返ると、自分の知らない人生の様々な教訓を発見できるようになります。流れのCFD解析は、空間を流れる個々の流塊の人生、すなわち歴史を解析することを可能とするものです。