第四十九夜 好きになる

 人は、興味がなかったものでも何度も見たり、聞いたりすると、次第によいものだという感情が起こってくると言います。よく会う人や、何度も聞いている音楽や絵画は、次第に好きになっていくようです。心理学の世界では、こうした現象を「単純接触効果」と言うそうです。これは、1960年代、アメリカの心理学者ロバート・ザイアンスにより、まとめられて、ザイアンスの単純接触効果、ザイアンスの法則、ザイアンス効果などとも呼ばれているそうです。対人関係についてもこの「単純接触効果」があります。「熟知性の原則」と呼ばれるそうです。会う回数が多い相手に対しては、次第に好感度が増します。恋愛のイロハですので、実践された経験がある方も多いかもしれません。マメな人ほど、会う回数が増します。会う度の小さな思いやりが、相手に安心感を抱かせ、頻繁な接触によって好感度がもり上がります。恋愛に限りません。営業のイロハでもあります。マメに取引先に伺う営業は、頻繁な接触によって好感度がアップし、小さな取引機会も逃さず、最後には優秀な営業成績を残せるというわけです。熟知性の原則は人の社会行動を考える社会心理学の入り口の原理のようです。

 この「単純接触効果」や「熟知性の原則」は、人の心理の特性です。心理学の専門家は、この特性のメカニズムを何とか説明しようと試みます。例外なく、類似の現象をすべての説明できる単純なメカニズムを見つけ出せれば、心理学者としては成功です。人の心理は、脳内の情報処理の特性を表していると言われています。心理学における単純接触効果のメカニズムをもう少し詳しく解釈したものを紹介します。見たり聞いたりして人が受ける特定の類似した刺激に、たびたび接触し続けると,その類似した刺激に対する知覚情報処理レベルでの処理効率が上昇するとともに、類似した刺激に対する一つの概念形成が生じます。いつも笑顔を見せるスマートな人だとか、いつも話のし易い便利な営業とかでしょうか。無意識の学習効果といえるかもしれません。この脳内の情報処理効率の上昇が、その刺激への親近性を高めます。この親近性の高まりが,刺激自体への好ましさに誤って帰属されてしまう、というように説明されています。笑顔を見せる好ましい人だとか、頼みやすい営業だとかでしょうか。頻繁な接触による親近性が好ましいという気持ちに通じてしまう、心理学ではこれを「知覚的流暢性誤帰属」というそうですが、人にはこのようなメカニズムが働いていると説明されています。ただ、「熟知性の原理」は、どんな刺激でも同じ効果を持つわけではありません。刺激の属性により異なります。恋愛対象を考えると分かりやすい気がします。会えば会うほど好きになっていく女性には、容姿の良し悪しが関係ありそうです。でも容姿の良し悪しだけが影響するわけではないところが面白いところです。誠実さなどの態度はもっと影響するでしょう。しかし、恋愛対象では、両方向にこの働きが効かないと困ります。片側だけですと、どちらか一方だけの熟知性の原則効果が高まり、迷惑なストーカー人間ができてしまうことになります。

 世の中には、マニアという人種が溢れています。鉄道が好き、すなわち鉄ちゃん、などはマニアの中でも特に有名なものかもしれません。好きが高じてマニアになると思いますが、では最初の好きは、どのようなきっかけで始まったか、不思議に思いませんか。これも、幼いころの単純接触効果が、好きを生み、マニアに発展しているような気がします。

 筆者の場合、マニアというほどではありませんが、電車が好きです。どうして電車好きになったか、一つ思い当たることがあります。子供であればだれでもそうだと思いますが、電車に乗った時、窓の外の景色を見るのが面白くて好きになります。特に運転席の後ろから前の方を見る景色は、色々なものが自分に近づいてきて後ろに流れるのがとても面白く、筆者は運転席の後ろに立って景色を見るのが大好きでした。景色を見るついでに運転席についている各種の計器、代表的なものはブレーキ用の空気圧力計や速度計ですが、そのほか電流計や電圧計なども無意識に見ていたと思います。今から考えれば、この電車の運転席の計器に対する単純接触効果で、電車の計器が好きになり、電車が好きになったのかもしれません。筆者の場合は、この電車の計器の単純接触効果に加えて、さらに電車好きになったきっかけがあります。

 まだ学生時代だったと思いますが、建物の電気エネルギー使用の節約に関して、研究していたことがあります。その際、電力会社の人と電力の需給に関して、様々な話をしたことがあります。電力会社は、日々の電力の需給調整を行っており、供給電力の周波数が、決められた変動以内に収まるよう発電量の調整を行っています。需要量に対して発電量が過多になると周波数が高くなり、逆に発電量が不足すると、周波数が低くなります。イメージとしては、発電量が不足すると、発電機に投入する機械的な回転エネルギーが不足して、発電機の機械的な回転数が減少し、発電周波数も低下するということでしょうか。需要過多で周波数が低下すると交流発電機の動力源となるタービンの回転数が低下し、タービンブレードまわりの流れの特性により、タービンが破損するなどの事故が生じるということだったと思います。というわけで電力会社は、常に送電周波数、送電電力をモニターしているそうです。筆者が面白いと思ったのは、この送電電力の監視で、変電所管内での電車の発停が分かるというのです。電力使用の小さい機器の発停は、変電所単位ではほとんど見えませんが、電車の発進のような大電力量が必要とされると変電所の送電モニターに、目で見える変動が記録されるとのことでした。どうということはない話ですが、電力会社が、鉄道会社の電車の発停をモニターできるというのは、筆者にとって驚きで、電車の電力使用に興味を持つきっかけになりました。高校の物理の知識の範囲で、電車の総重量と加速度が分かれば対応して、必要な電力量も見当がつきます。その大きさも簡単に計算ができます。これを聞いて、筆者は、電車の運転席の電流計や電圧計を運転席の後ろに立つたびに、毎回チェックするようになりました。家庭用とはけた違いの電流と電圧で電車は動いています。この気づきが転換点となり、筆者の単純接触効果による電車の運転席の電圧計や電流計への無意識の好みが、筆者の意識として顕在化し、電車や鉄道の動力や送電システムに興味を持つようになったように思います。

 さて、好きが高じてマニアになる話の次は、仕事の話にしましょう。世の中には、様々な職種があり、様々な人が様々な仕事についています。皆、自分の仕事は程度の差こそあれ、好きになっていることと思いますが、これも単純接触効果も働いているのでしょう。筆者の場合、CFD(Computational Fluid Dynamics)に長年、関わることになりましたが、色々な道があったと思いますが、何故、CFDの道に入ったのか、不思議な気がします。しかし、確かなことはCFDの道に入る前に、ずっとCFDにあこがれを持っていたということはないようにも思えます。偶然、CFDの道に入り、単純接触効果で、CFDに触れている間に、親近性が増し、CFDが面白いとか、好きと誤認して、さらに深みにはまったかとも思います。ですが、少し子供のころまで振り返ってみると、水道の蛇口から水の流れをよく見ていたことを思い出します。この水の流れを毎日見ることによる単純接触効果で、流体現象に無意識の興味を持つようになった気もしてきました。蛇口から吐出する水は透明な綺麗な流れなのに、吐出口から10センチも離れると、周辺の空気も巻き込むのか、白く乱れます。層流から乱流へ移行する過程を見ていたわけです。この光景は、幼いころから毎日、見ています。この単純接触効果が、流れるものが好きなんだと潜在的に刻み込まれたのかもしれません。筆者を流れの科学の分野に誘い込んだ一因は、蛇口からの吐出水の流れだったかもしれません。蛇口からの吐出水は、筆者に限らず、ほとんどの人が毎日見る光景でしょう。でも、これで多くの人が流れ現象に関連した職業に就くわけではありません。しかし、きっとこうした流れの光景がすべての人に単純接触効果を与えており、皆、本質的に流れ現象が好きなんです。ただ、意識化されるきっかけがなかったため、職業として選ばれなかったのだと筆者は、思っています。