予言者(預言者)は権力を持ちます。特に、霊感により啓示された神意(託宣)を伝達あるいは解釈し、神と人とを仲介する預言者は、しばしば古代の共同体で、指導的役割を果たし、共同体内で強大な権力を握ることが多かったと思われます。日本語で予言と預言は、同じく未来の洞察を表しますが、ニュアンスは多少異なります。英語では同一の言葉、prophecyが割り当てられますが、日本語では予言が「未来のことを前もって語ること」を意味するのに対し、預言は「来たるべき世界の内容とその意味を示し、人々のとるべき態度、行動を指し示すもので、ある意味、現実とは異なることを厭わない宗教的な世界を提示する」という語感があるそうです。
科学的知識が発達して、人が神により生み出されたという考え方は、多くの人々の間では文字通り、神話となりました。この人類誕生の神話は、分かったようで分からない、謎だらけで不思議な説明でした。日本神話の国造りや人の誕生も謎だらけでしたが、まずは、西洋世界で一般的な人の誕生を考えてみましょう。旧約聖書の中では、神が一週間のうちに天地を創造し、最後に自らの姿に似せて人を創ったというお話があります。筆者が中学生の時代だったと思いますが、両親と私達子供全員の家族そろって、「天地創造」という映画を見に行ったことがあります。映画は、旧約聖書のその最初の部分を映像化したものです。神の一週間にわたる天地創造から、初の人であるアダムとイブの誕生とその子孫の経験を映像化しています。初の人であるアダムとイブは禁断のリンゴを食する前は羞恥を知りませんので、衣服はまとわず全裸です。映画は、このイブを演じた女優が全裸で演技したことが話題となっていました。そのほか、音楽を黛敏郎が担当したとか、上映は5chのサラウンド音響で、150度視野の巨大湾曲スクリーンに映写するということなどで話題を呼んでいました。映画の原題は「The Bible」ですが、日本では「聖書」などという題名よりは「天地創造」といった方がインパクトがあり、映画の題名として相応しかったと思います。折角、家族そろって見に行った映画ですが、女優さんの美しい姿態が印象に残るわけでもなく、期待外れな映画の印象でした。ただ、イブがアダムとともに横になって休むシーンで、木の下で二人が腹ばいで横になったことが、筆者には不自然に思えて、そのシーンが今も思い出されます。やはり、宗教的な背景が身近な人でないと映画の訴求力は届かなかったのでしょう。ただ、巨大な画面に包まれた非日常性とうるさいほどの立体音響のみが印象に残りました。
話を戻します。筆者の不信心はお許し願うとして、筆者の不思議を挙げてみます。筆者は、子供の頃、子供に出されるおやつ目当てでしたが、兄弟とともに毎週、教会の日曜学校に通い、牧師さんの話す聖書の紙芝居や話を聞いていました。今から考えると、母が、日曜日の午前中は、子供の世話から解放されたくて、我々を日曜学校に通わせたという気がします。ある日、牧師さんのお話で、牧師さんが早朝、おなかが痛かったが、お祈りするとおなかの痛みが癒えたとお話になりました。紙芝居にあるように病気も信心で癒えるのかと、大変驚いて、父に報告しました。父は、母もそうですが、別に信者でも何でもありませんでしたが、その不思議を否定せず、素直な気持ちでお祈りすれば、そうしたことも不思議でないと言いました。神様にお祈りすることで痛みが消えることなど経験したことが無く、この父の話で、さらに大人が子供を騙していると、疑いの気持ちを持ったことを覚えています。また自分の体験を話してしまいましたが、旧約聖書の世界に戻って、子供心に、不思議に思って覚えているものを挙げてみます。まずは、時期の不思議です。「光あれ」に始まる天地創造とアダムとイブの誕生の、時期についての不思議です。時期といっても、今から何年前のことかといった時期のお話ではありません。天地創造したからには、その前に神様が存在したことは確かでしょう。神様の過ごされた時間の中で、天地創造した時期はいつ頃かという不思議です。神様はいつ頃、存在されるようになったのでしょうか。天地創造の、はるか昔から存在されていたのでしょうか。あるいは、神様の存在が確立すると同時に、天地創造と人の誕生が生じたのでしょうか。神様に天地創造の前に時間があったとすれば、神様は、いつ天地創造と人を生み出そうとお考えになったのか、天地創造や、人を生み出すとお考えになる前は、神様は何をお考えになったのか。何がきっかけで「天地創造」という大事業に着手されたのか、知りたいと思いました。知りたいと思いませんか。ほかにも、不思議があります。そもそも、神様と人は、どのように意思疎通をしていたのでしょうか。人の中で、預言者といわれる人のみ、神様と直接意思疎通ができたと言われています。とすると最初の人であるアダムとイブも、「リンゴを食べてはいけない」と言われたことを理解していて、これに背いたということは、神様とある程度の意思疎通ができたと考えられます。とすると、二人は、神様と意思疎通ができる預言者だったということですね。にもかかわらず、神様の意志に逆らったということですね。さらには神様と意思疎通ができる預言者は、どのように神様と意思疎通するのでしょうか。神様から預言者の心の中(?)に一方的に音声言語を介することなく意志が伝達されたのでしょうか。あるいは、そのころの預言者は音声言語を介して、神様と相互にコミュニケーションが取れたのでしょうか。
そもそも、神様は、どうして「リンゴを食べてはいけない」などといった、たわいのないタブーを設定したのでしょう。このほかにも旧約聖書の中では、様々なタブーが設定されています。このタブーの設定を人に説明なく、神様が自由に行っているように見えるのが不思議です。どうしてそのタブーが存在し、そのタブーを守ることに、どのような意義があるのでしょうか。タブーを守らせるのであれば、神様は人にその理由を説明した方が、良く守られる気がします。しかし神様は説明しないようです。どうして、神様はそうしたタブーを設定するのか。そもそもタブーの設定は、神様の都合なのか、あるいは人のためになる設定なのか、知りたいものだと思いました。子供心にも、このタブーの設定は、神様の権威を維持するために有効だと感じました。神様がリンゴを食べてはいけないと言えば、その命令に無条件に従わなくてはいけません。破れば罰を受けるのです。神様と同等の権利など持ち合わせていない人に理由を説明する必要もなく、人はそのタブーを無条件で守らなければなりません。タブーの設定は神様が人を支配するための手段なのでしょう。
同様に、人は、リーダー(宗教的な指導者や世俗的な王様など、様々なリーダーがあり得ると思います)がくだした命令には、その理由の当否を尋ねることは許されず、従順に従うことを良しとする教訓が組み込まれていたのでしょう。今でも、その当時感じた印象は、あまり変わらず残っております。いずれにせよ、タブーの設定とタブーを守らせる力は、人を動かす権力者には都合がよく、権力者のあるところ、タブーの設定とタブーを破った者への見せしめ的罰はついて回っていると思います。
さて、神話とは違い、自然科学の発達した現代では、人の誕生は、地球での生命の誕生と、生命の進化によるものと考えられています。生命の誕生は、いまだ不明な点も多いと聞きますが、やはり、その根本は遺伝子であるとされています。遺伝物質には、耐久性のあるDNAと比較的壊れやすいRNAがありますが、生命の誕生にかかわった遺伝子はRNAと言われています。数十億年前に、地球の海という液相環境の中で、遺伝物質様の物質が、偶然にも脂質膜という比較的正確なコピー遺伝子を形成、保護できる環境を見出し、これが洗練されて遺伝子自身が自己増殖する形態に発展し、さらには代謝という化学反応を獲得して、自己増殖できる環境を強化、発展させて、原始生命が誕生し、さらにこれが進化を繰り返し、現在の地球上の多くの生命に発展したという、世界観が共有されるようになったと思います。人も、その進化の枝の一つと言われています。この生命誕生と進化のストーリーは、比較的、ありそうなお話に思え、筆者などもこの生命誕生物語の信者の一人です。なお、この生命誕生と進化の物語に関して、疑いを持つ人からは、このように生命が誕生したのであれば、いつの時代にも、新たな生命の起源があっても良いではないかという疑いがありました。筆者なども、以前はこの疑いが有力であるような気がしていましたが、進化の歴史の中では、ひとたび、生命が誕生してしまうと、後から誕生した、か弱い生命体など、簡単に淘汰されてしまい、結果として種として生き残ることはないという、説明が説得力を持ちます。
いつの世でも、権力者は、被支配者に様々なタブーを設定し、これを守らない人々には理不尽な罰を与えて支配を強化していたと思います。人の支配には、飴と鞭の両者が必要といいます。多分タブーの設定とタブーが破られた際の罰はどちらかというと鞭にあたるのでしょう。飴は、権力者の予言、ありがたいご供託であると思います。未来の禍が予測でき、さらにその禍を回避できる方法を教示する人は、強力な権力者になりえます。特に、鞭の怖さ、すなわちタブーが破られた時の罰の恐ろしさを知る人々にとっては、その予言者への信頼は増します。予言者が導くままに、考え、行動するようになりそうです。予言は、大きなパワーを生みます。予言することができる人は、権力者としての資格を持つことになります。
CFD解析を行う人も、一種予言者になります。不可思議な流れの様相を予測し、その対処法を示すわけですから。流れが、どのようになるか、どのような影響を及ぼすか、事前に見当もつかない人々にとって、CFD解析を行う人は、神にも近い権力者になりうる資格を持っているようです。