第六十三夜 風で冷やす

 調理された料理に限らず、周りの空気より暖かいものは、周りに熱を放出して冷えて行きます。この暖かい物を冷却する能力は、周辺の空気の温度や空気の移動(風速)や周囲の物体の表面温度などに関係します。小学校や中学校で学んだ熱の伝わりかたの3形態である伝導、対流、放射で、温かいものから冷たいものに熱が伝わり、冷えるわけです。

 放射での放熱は、ものの温度が絶対零度以上で必ず生じます。ものの温度が絶対零度以上であれば、ものは赤外線などの電磁波を放出して冷えていきます。ただ、暖かいものの周囲に少し温度の低い冷たいものが取り囲んでいると状況が少し変わります。暖かいものも冷たいものも、ともに赤外線などの電磁波を放出しますが、両者は、ともに相手が放出した放射熱を吸収することになります。温かいものが周辺に放出する赤外線などの熱エネルギーの総量に比べて、周辺の冷たいものが放出し、温かいものが吸収する赤外線などの熱エネルギーの総量が小さければ、結果として温かいものは、周囲の冷たいものに囲まれて、冷えていきます。この赤外線の放射による放熱は、温かいものの温度が高ければ高いほど大きくなります。また、条件によりますが、暖かいものを取り囲む空気に伝導し、対流により冷却される放熱に比べて、小さく無視できるということはありません。

 例として、体温を37℃に保っている人で考えてみましょう。人は、良く知られているように成人は1日当たり約2000kcalの栄養を取り、同量を産熱し、それを周辺環境に放熱し、その過程で体温を37℃に保っています。基本は、産熱量と周辺環境への放熱量が釣り合っています。釣り合っていないと、体温は上昇もしくは下降し、体温を一定に保つことができません。2000kcal/dayの産熱は、SI単位で表せば、凡そ100Wになります。人は100Wの発熱体です。話は違いますが、通勤電車1両の定員はおよそ140人です。満員電車は、定員の1.5倍程度の人が乗り込むと言いますので、満員電車1両にはおよそ200人の人が乗りこんでいるわけです。その総発熱量は、なんと20kWにもなります。ほんの30年前頃まで、満員電車には、冷房が普及していませんでした。分散させたとしても、20kWの冷房装置は巨大です。架線やトンネルなどの関係から通勤電車の形態には制限がありますから、電車の屋根部分に大きな冷房装置を設置し、電車の隅々まで冷風を分配することは難しかったことも、電車に冷房装置をなかなか設置できなかった理由の一つと思われます。話を元に戻します。人は、常時周辺環境にこの100Wの産熱を放熱し、体温を一定に保っています。室内など、風が穏やかな場所で、室温も快適な範囲内である時、放熱の6割方は、放射による放熱で、呼吸による放熱(室内空気を吸入して、湿度100%の体温程度の呼気を排出して行う)が1割程度、3割方は人を取り囲む空気に放熱しているといわれます。余り知られていないことかもしれませんが、温かい人を冷却しているのは、人の周りの床や天井、家具などの周囲の物体表面なのです。これらの物体表面温度が、人の着衣などの表面温度よりも低く、人からの放射熱を吸熱して、人を冷却しているわけです。これら周りを取り囲む物体の表面温度が下がれば、人はより効率よく冷却されます。またまた、話が横道にそれますが、満員の通勤電車の中の人を考えると状況が少し変わります。人は、同じ体温の人に取り囲まれます。人を冷却してくれる冷たい床や天井面の一人当たりの取り分も限られてしまいます。このような状況では、放射による放熱はあまり期待できません。冷やされた室内空気により、冷却するしかありません。

 人の周囲の空気も人の着衣の表面温度より低ければ、人からの産熱を吸収して人を冷却します。人の着衣表面からの表面に接する空気への放熱は、空気の熱伝導により生じます。空気が固体のように全く動かなければ、空気への放熱は熱伝導のみで生じ、やがて着衣周辺の空気の温度が着衣表面の温度と同じになってしまうと、温度差がなくなり、もはや空気が人を冷却することはなくなります。しかし、空気は流体で、移動することができます。着衣表面から空気に伝熱され、温められた空気が移動して着衣表面から離れ、新たに室温の空気がこの着衣表面に到達すれば、この供給された冷たい空気に人の産熱を伝達させることができます。すなわち、産熱して暖かくなった物体の表面に室温の空気が絶えず供給されて、温められた空気が、この発熱体から継続的に離脱すれば、空気によって人は効率よく冷却されることになります。幸い、空気は熱膨張するので、温められた空気は周辺の空気より密度が低くなり、浮力が生じて上部に上昇し、上昇した空気を補うように、人体下部から室温の空気が人に供給されます。人の周辺の空気による冷却は、伝導とこの空気が移動することにより熱が移動する対流の2種類のメカニズムで、行われます。ただ室内のようにあまり強い気流がなく、快適な室内空間では、この空気による人の冷却は、放射による冷却に比べ大きな効果を持つものではありません。しかし、この空気が動くこと、対流による冷却は、発熱体周辺の空気の流動が速くなると、極めて効率的に行われるようになります。満員の通勤電車の中の人の冷却は、まさにこの強い気流を利用しなければなりません。

 ここで、もう一つ考えることがあります。物体表面近くの空気の動きです。空気が通るような穴ぼこが物体にいっぱい空いてれば別ですが、一般に固体は液体であれガス体であれ、流体をほとんど通しません。流体が流れるパイプやダクトを考えても、固体であるパイプやダクトを通過して流体が移動してしまっては、パイプやダクトの入り口から出口まで、流体を流すことができません。途中で漏れてしまいます。流体を通さず、流れがパイプやダクトに沿って流れてくれるので、流体をそれぞれの入り口から出口まで届けることができます。物体表面近くの流れは、物体表面と平行に流れることはできても、物体表面に対して垂直方向に流れることはできません。当たり前ですよね。しかし、これは物体から流体に熱が伝わる時にその効率が流れ方向で変化することを意味します。パイプやダクトが暖かく、流体が冷たい場合、パイプやダクトの入り口では、冷たい流体に熱が良く伝わりますが、温められた流体はパイプやダクトに平行に流れ、入り口から奥に行くにつれて、すでに温められた流体が、暖かいパイプやダクトに接することになります。すなわち、入り口では、効率よく熱が物体から流体に伝わりますが、下流に行くにつれて物体に近接する流体の温度は上昇して、固体表面との温度差が小さくなり、効率的に熱が伝わらなくなります。流れ方向に距離が長くなるほど、熱の伝わる効率は落ちます。室内に同じ表面温度の熱板をおいた時、小さい面積の熱板での空気への熱の伝わり方は面積が広いものに対し、効率が高く、良くなります。少し、専門用語を使いますと、対流熱伝達率は面積依存性があり、小さい面積では熱伝達率が大きく、大きな面積になると熱伝達率は小さくなります。人に例えるなら、大きな人と、小さな人では、一般論として、小さな人は大きな人にくらべて、効率的に冷やされるということになります。物体から流体への熱の伝わり方で、もう一つ大事な要素があります。流体の乱れです。パイプやダクトの中を流れる流体が乱れていると、専門的には乱流になると言いますが、話が少しだけ変わります。流体が乱れていること、乱流であることは、小さな渦や大きな渦が、この流れの中にあることを意味します。パイプやダクトの表面近くの流れが、乱れて乱流状態にあれば、この小さな渦は、表面近くでもパイプやダクトの表面に対して垂直方向の乱れによる小さな流れがあることを意味します。表面のごくごく近傍ではこのような表面に垂直方向の流れは存在せず、表面に平行に流れることしかできませんが、少し離れれば、表面で温められた流体を効率よく表面から離脱させ、表面から遠くを流れ、まだ温められていない流体を表面近くに運ぶことができます。乱流状態になると、固体表面から流体への熱伝達は、飛躍的に上昇します。

 最後に一言、人が、風を感じるようになる風速は、凡そ0.5m/s程度と言います。人が風を感じるようになるのは、主に風による冷却力の増大によると考える人が多くいます。風速が0.5m/s程度では、この風速による動圧は0.15Pa程度です。この程度の動圧があれば、体毛を揺らすことも可能かもしれません。その触感で風を感じることもあるかとも思われますが、風による冷却力が乱れの効果も相乗して強くなり、放射による冷却力を凌ぐようになり、風の微妙な強弱による冷却力の違いを、人が皮膚表面にめぐらした温冷感覚で、風を感じるのではないかとも考えられます。話が全く異なりますが、人が背後に忍び寄った時、人の気配を感じることがあります。人が背後から近づいて視界に入らなくても、人の気配を感じ取る人間の五感の鋭さは、人が皮膚表面にめぐらした温冷感覚ではないかと考えることがあります。背後に人が忍び寄ると人の背後、特に露出した首筋などでは、放射による冷却効率は、忍び寄る人が放射する赤外線を吸収して、落ちると思われます。この温冷感の違いを検知することも、人の気配を感じる一助になっているのではないかと思っています。