第六十四夜 弾丸登山

 富士山は、日本で一番高い山として知られています。富士山が一番高い山ということは、日本人であればだれでも知っていますし、日本人のみならず日本に観光で訪れる海外の人も良く知っているようです。海抜3776mだそうです。それでよく言われることですが、では「二番目に高い山の名前は」という問いに答えられますか。小学生だと社会科の日本の地理で覚えているかもしれません。しかし、多くの日本人は答えられないのではないかと思います。正解は、インターネット検索で、すぐわかることですが、南アルプス(赤石山脈)の北岳だそうです。海抜3193mです。富士山に比べると、583mも低いようです。東京で手軽にハイキングができる山として良く知られている高尾山は、海抜599mですので、富士山頂は北岳山頂から、ほぼ高尾山分の高さを登る必要のある高さです。圧倒的高さです。

 一番は世間の常識となり良く知れ渡りますが、二番はリスペクトされないという意味で、「2番目に高い山は知っていますか」という質問は「2番ではだめだ。」「1番にならなくては。」という比喩に使われます。蓮舫という名の議員がいました。今もいます。もうずいぶん前になってしまいますが、彼女が政権の担い手の一人として「事業仕分人」となった際(2009年ごろでしょうか)、事業仕分けで次世代スーパーコンピュータ開発の予算削減のヒアリングの際、「世界一になる理由は何があるんでしょうか?2位じゃダメなんでしょうか?」と発言し、有名になりました。彼女の発言は、散々な批判を浴びました。「科学技術の分野では、みな世界一を目指し努力し、やっと上位に残れる。」それゆえ、1位を目指して努力する姿勢をも否定する発言として解釈され、バッシングされました。でも、これで蓮舫議員の名は人々の記憶にはしっかりと残りました。これはこれで良かったのではないでしょうか。筆者は彼女のグラビアアイドルやタレントとしての活躍は知りませんでした。しかし彼女が日本の政治に残したインパクトはしっかりと記憶に残りました。

 小学校の社会科の地理で習った、日本の山の高さのランキングのついで、日本の河川の長さのランキングや湖のランキングに触れてみます。河川の長さの一番は、信濃川で367km、二番は利根川で322km、三番は石狩川で268kmになります。湖の広さの一番は、言わずと知れた琵琶湖で669km2、二番が霞ヶ浦の168km2、三番が汽水湖であるサロマ湖の151km2となります。筆者などは、二番は秋田県の八郎潟、と記憶していましたが、今は干拓でほとんど陸地化されてしまいました。山の高さのランキングに関して、2番以降は記憶にありませんが、河川の長さや湖沼の広さは、日本の地理を知るという小学校の社会科で、苦労して覚えた記憶があります。ただ、日本の面積37.8万km2に比べて、琵琶湖の面積は0.18%しかありません。ただ地図を見ると、滋賀県の半分以上が琵琶湖のように錯覚しますが、滋賀県における琵琶湖は、17%しか占めていません。河川の長さでも、東京と名古屋の鉄道距離366kmに比べて、信濃川も同程度で特に長いわけではありません。世界のスケールに比べて日本のスケールは小ぶりです。

 富士山は、2位以下の山々が山脈を成す連続峰の一部で、その最も高い峰であるのに対し、独立峰ですし、高さも圧倒的ですから、一番と二番以下は、質的にも相当違います。その富士山は、海外からの観光客の人気スポットとなっています。富士山は、富士スバルラインで5合目(海抜2305m)まで比較的簡単に行けます。最近その5合目から富士山頂まで、一昼夜、軽装で登山する弾丸登山が話題 もしくは問題になっています。日本人の若者もいますが、多くは海外からの観光客のようです。弾丸登山とは、面白い名前の比喩だと思いますが、「五合目を夜間に出発し、山小屋に泊まらず、夜通しで一気に富士山頂を目指し、すぐに下山する登山形態(0泊2日や日帰り登山)」だそうです。夜間登山ですから辺りの景色を楽しむこともないでしょう。登山という気持ちの良い運動の快感を味わうものでもないようです。目的に向かって弾丸のように飛んでいくので弾丸登山という名称がついたのだと思います。富士山の弾丸登山の動機は、頂上でのご来光(日の出)を見るためだそうです。富士山頂の気圧は、約630hPaといいます。海面補正気圧の約1013hPaの6割ですからかなり気圧が低いので、十分な休息の無い弾丸登山を行うと、身体が高度順応する余裕が無く、高山病を発症しやすくなります。ご来光に合わせた夜間の登山は、事故の危険も多くなります。荒天になれば、風雨も激しく、雨具や防寒具の備えがなければ夏でも低体温症を発症する可能性があります。そもそも、登山靴を使わない登山は、疲労や事故のリスクを増加させます。ということで、地元の関係者の間には、強い危機感があり、関する報道も度々行われました。そういえば、富士山では落石事故が度々起こっています。過去には死者12名という大規模な落石事故もありましたし、近年も度々落石事故で死傷者が出ています。弾丸登山を試みる観光客の皆様は、そうしたリスクを承知でトライしているのかしらと思ってしまいます。

 高いリスクは取らない主義の筆者の富士山体験は、麓の河口湖などに観光に訪れた際、富士スバルラインで5合目まで車で登り、終着の5合目のレストランでお茶を飲み、お土産屋を冷やかし、間近に迫る山頂を見上げた程度です。ただ、5合目から見上げても山頂を認識することは難しかった記憶があります。筆者の周りで富士山登頂したという人は、留学生や留学生を案内した日本人の学生程度です。山を楽しむ(景色や森林浴や運動を総合的に楽しむ)なら、近場の高尾山でも十分です。経験したことはありませんが、高尾山も大晦日や新年には、ご来光目当ての人々の為、交通機関がサービスを提供しているようです。

 弾丸登山に戻ります。弾丸登山でのリスクの一つの高山病は、低酸素状態において数時間で発症して、頭痛、吐き気、嘔吐、眠気やめまいが生じるようです。他にも、顔や手足の浮腫、眠気やあくびなどの睡眠障害、運動失調なども現れると言います。一般には1日から 数日後にこうした症状は自然消失するそうですが、重症の場合には死に至ることもあるそうです。筆者は家族で長野県の浅間山スキー場(海抜1600m)に行ったことがありますが、子供が体調を崩してしまい、高山病と診断された経験があります。富士山の5合目でも高山病を発症する危険はあると思います。

 高山病より、恐ろしいのが、Hypothermiaと言われる低体温症です。健康な人の深部体温(筋肉や内臓、脳などの重要臓器の温度)は、37℃程度ですが、これが2℃以上下がって35℃以下になると低体温症を発症します。33℃以下になると、人の体内で生じている様々な生化学反応、特に細胞の生命活動全般におけるエネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)の生成が急速に低下し、そもそも熱生産しなくなり、重症化します。良く聞く話と思いますが、低温の海などに落水すると、秒単位で意識を失い、心臓麻痺をおこして死に至ると言います。北海で活躍する漁師の皆さんにとって落水は、直ちに生命の危機を意味します。富士山登山でも、少し天候が悪ければ軽装での登山では風雨に曝されて低体温症を発症し、命に係わる状態にもなります。ただ、富士登山は渋滞ができるほど混雑しており、救助の機会は多そうですので、その点は救われるかもしれません。

 夏山での低体温症による事故は、毎年、尽きることなく繰り返されています。近年、世間を騒がせた夏山の山岳遭難事故としてガイドを含むツアー客8名が低体温症で死亡した事例がありました。これは、北海道大雪山系トムラウシ山で起こったもので、真夏の7月中旬、早朝から夕方にかけてツアー客15名とガイド3名のパーティが悪天候に見舞われ、雨具や防寒具など比較的十分な装備をしていたにも拘わらず、半数近くが命を失ったものです。気温はそれでも10℃前後でしたが、風速10~20m/s前後の強風が吹き荒れ、雨も激しかったということです。前日からの降雨ですでに衣類が濡れており、十分に乾燥していない衣類を着込んだりしたとも言いますが、遭難者の衣服を事故後に確認した限りでは濡れていたのは手足などで体幹部分は濡れていなかったと言います。この事故のすぐあと、当時、筆者が勤務する大学にマスコミから連絡があり、風洞の中で、記者が風を体感したいという依頼がありました。風洞は、人が立って入ることができ、0~25m/sの風速に曝露させることができます。さらに気流温度を10~50℃の間でコントロールもできるものです。人体実験を目的とした装置ではないので、躊躇したのですが、責任はマスコミ側がとるというので、曝露実験を承諾しました。風暴露体験記者は、防寒具なく、軽装で、気温10℃で、風速20m/sの気流に10分間を限度に曝露する予定でした。結果は、記者は10分間も耐えられず、曝露をギブアップしました。風速1m/sで体感温度は1℃、下がると言う強風体験をしたわけですが、体感温度の低下よりは目の保護が先という一般的な教訓を得たようです。冬場に、身一つでモーターバイクを飛ばす人々がいると思います。降雨時に、気温10℃以下、バイク速度80km/h(秒速22m)で突っ走るということも時々はすることもあるかと思いますが、さすがにゴーグルやフルフェースマスクなどの目の保護なく、モーターバイクを飛ばすことはできないのではないかと思います。

 Hypothermiaと言われる低体温症の対極にあるのが、Hyperthermiaと言われる熱中症です。これは、人の深部体温が3℃ぐらい上昇して40℃以上になると重症化し、脳機能障害を起こして意識混濁や意識喪失となり、致死率30%以上、また回復しても重大な脳機能障害をおこすことが多いと言います。人は恒温動物で、深部体温は37℃前後になるよう生理的、行動的調整を行いますが、この調節の範囲を超える環境に曝されますと、いとも簡単に健康を害し、悪化すれば容易に死に至るものであることを覚えておく必要があります。最近、地球温暖化の影響により日本のような中緯度の地域でも、気温が容易に40℃を超えるような状態となりました。水分不足で発汗が十分行えない状態や、日射に曝されたり、高湿度に曝されるなど悪条件が重なると、熱中症になる人が増えます。最近は熱中症と診断される人が、ひと夏で万人単位にものぼり、死者も数千人単位となっているようです。低体温症による死亡に比べ、熱中症による死亡は驚くほど高いようです。気をつけたいものです。