ここ数十年ほど、ユビキタスという言葉を良く聞くようになりました。一時期に比べると最近はそれほどでもないかもしれません。ユビキタスを表す日本語としては、「遍在」という日本語があります。この「遍在」は、良く用いられる「偏在」と同音ですが、意味が真反対に違います。「遍在」の「遍」は「普遍」の「遍」で、広く行きわたって存在すること、あまねく存在することですが、「偏在」の「偏」は、偏頭痛の「偏」で、偏って存在すること、ある所にだけ在ることになります。希少金属が、特定の地域や国でしか産出できない時、その金属資源は、「偏在」していると言いますが、神が「遍在」しているとは、神がどこにでも存在することを指します。
神は、私たちが認識する限り、境界線がなく、あらゆる場所に存在しています。キリスト教やイスラム教などの一神教の神と、日本の八百万の神とでは、神に関する認識の違いがありますが、いずれも神は、私たちが神を認識する限り、場所を選ばずあらゆる場所に存在します。「神様、お願い」と唱えるその瞬間、神は、私たちの身直に存在するわけです。神の遍在は、私たちが神を経験する方法として、基礎となるものです。神がどこにでも存在するということは、神が私たちの側にいて、私たちを常に見守っているということになります。
本来のユビキタスは、この神の遍在という意味で使われるのが一般的だったようですが、1991年に米国ゼロックスのパロアルト研究所のMark Weiser(マーク・ワイザー)が、論文『The Computer for the 21st Century』にて、コンピュータやネットワークなどの遍在をあらわす意味合いで用いた結果、それ以来、ユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワーク、更にはそれらが当たり前になった社会を指す「ユビキタス社会」などの意味で用いられるようになりました。Mark Weiserの論文発表から30年ほどたち、携帯電話通信での4Gや5Gなどの高速通信のインフラが整備されてきたこの頃は、まさにユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワークが実現し、「ユビキタス社会」がある程度、実現している観があります。電車に乗っても飛行機に乗っても、歩いている人や車を運転している人以外は、ほとんどすべての人といってよいほど、スマホの画面を見つめていて、何らかのデータベースにアクセスしています。そのためか、最近は、このユビキタスという言葉を聞くことも、当たり前の社会になったためか、少なくなってきたようです。スマホをユビキタスコンピュターということには抵抗感があるかもしれませんが、少なくともユビキタスネットワークにアクセスしていることは確かかと思われます。
このユビキタスコンピューティングやユビキタスネットワークという言葉が脚光を浴びた1990年代に、進みだした動きの一つに、シンクライアントがあります。昨今のスマホは、ユビキタスコンピューティングと称することには抵抗を覚えるかもしれませんが、一種のシンクライアントというのであれば、許されるかもしれません。今、会社としてはなくなってしまいましたが、1990年代中ごろに、筆者は日の出の勢いであったサン・マイクロシステムズを訪問したことがあります。サン・マイクロシステムズの本社は、当時、ゼロックスのパラアルト研究所のあったパラアルト市に近接したメンローパーク市にありましたが、新たにパラアルト市に建設したというサンフランシスコ・ベイに近接した事務所を訪問しました。パラアルト市にはスタンフォード大学を中心として周辺にヒューレット・パッカードや、シリコングラフィックス、サン・マイクロシステムズなどがあり、当時のワークステーション開発を主導した拠点となる地域だったと思います。話は飛びますが、やはりパラアルト市に隣接したマウンテンビュー市にあったNASAのエイムズ研究所を訪問した時、当時はもうヒューレット・パカードに買収されてしまったアポロコンピュターのワークステーションが撤去され、グラフィックス用に更に高価なシリコングラフィックスのワークステーションがたくさん並んで、いずれも富士通の大容量高速のウインチェスターディスクを備えている様をみて、大変、うらやましく思ったことを記憶しています。サン・マイクロシステムズのワークステーションは、特にグラフィックスが強いわけでも計算速度が速いわけでもありませんが、スタンフォード大学の多くの技術系研究室が導入しており、見学を勧められました。サン・マイクロシステムズの技術者が力を込めて紹介したシステムが、現代のシンクライアントの原型(?)の一つとなるJavaStationでした。これは後に、Sun Rayシリーズとなるシンクライアントの最初のもので、まさに、シンクライアントによるユビキタスコンピューティングの原型ではないかと思います。ただ、筆者の印象は、当時のネットワークは速度が遅く、サーバーとクライアントが高速ネットで結ばれていない場合には、使い物にならない応答で、とても当時のパソコン、今でいうファットクライアントに太刀打ちできるものとは思われませんでした。しかし5Gのネットワークも実用になり、クラウドサーバにデータを落として、ネットワークにアクセスしシンクライアントもしくはファットクライアントを使うようになった現在では、筆者のように1970年代の計算機をバッチシステムで利用することから始めた者には、Mark Weiserの予言したユビキタス社会が本当に実現しつつあると感じます。
ユビキタスは、「遍在」より響きが良いので、あらゆる場所で利用可能ということを強調するには、良い言葉です。筆者もこのユビキタスという言葉を冠して、空調や給湯関係の「アジ」文を書いたりしたことがあります。生活に関わる人間の熱利用に関して、これを使用しました。炊事などを除くと、人が生活してゆくのに、大きな温度差が必要なことはめったにありません。地球の地表面付近の平均気温は約16℃程度と言われています。熱帯地方や寒帯地方があり、それぞれの気候区に応じた年間の平均気温は異なりますし、四季の移ろいによって月間の平均温度も変化しますが、全地球的に年間の平均気温を算出すると16℃程度ではないかと言われているようです。この16℃は、地球が太陽放射から受ける年間の総受熱量と、地表面温度(地表面付近の気温)で決まる、地球から宇宙空間への年間の放熱量が、地球の表面温度16℃くらいでちょうど釣り合うということに対応します。(少し申し訳ないのですが、16℃程度という数字に筆者は責任を持てません。筆者の思い込みの数字で、確認していませんので悪しからずご了解ください)この平均温度16℃と地球表面の平均温度に対して、地域的あるいは時間的変動があるということですが、ベースはこの16℃ということになります。人が生活するうえで、この16℃より100℃も高い温度や低い温度が必要になることは、滅多にありません。せいぜい20~30℃程度あれば十分でしょう。炊事は焼いたり、焦がしたりがあるので100℃以上の高温が必要になりますが、煮炊きだけであれば、100℃程度の温度で間に合います。となれば、こうした生活で必要となる温度差を、化石燃料の燃焼など、大きな温度差故に、大きなエクセルギー損失(エクセルギー (exergy) は物理化学用語で少し説明がいるかもしれませんが、一応、物理化学の教科書から引用すれば『系が外界とのみ熱・仕事を交換しながら、外界と平衡するまで状態変化するとき、系から理論上取り出せる最大の仕事量』のことです)を伴う方法で作成することことは、地球環境上、カーボンニュートラルという政策(人工的な炭酸ガス排出をゼロにするという政策)上、好ましい方法とはなりません。これらの温度差は、ヒートポンプ(heat pomp : HP)を用いて、最小限のエクセルギー損失で生み出すことが望ましいと思われます。具体的に言えば、例えば「給湯」です。給湯一般的には、せいぜい40℃程度の温水を提供すれば良いとされます。手洗いや入浴など、多くの熱需要はこの程度の温度差で済みます。また、温水を利用すれば、使用した温水の多くは排水として、捨てられてしまいます。せっかく作った熱も、捨てられてしまいます。しかし、給湯栓の一つ一つに昇温用のヒートポンプをつけ、ヒートポンプの熱源としては、給湯後、排水される排水を利用すれば一度、作成した温熱源が、熱源として有効に利用され、合理的と思われます。もちろん、この温排水だけでは熱源不足となる場合は、地球自身を熱源とすればよいわけです。地球の平均表面温度16℃となる地表面付近の空気や地表付近の土、もしくは河川や池などの水を使用することになります。同様に給湯のように室内に取り入れて利用し、排出するものとして、空調にも当てはめることができます。空調は一般に換気を伴います。ヒートポンプを用いて、屋外から室内に取り入れる換気を適切な温度に調整し、室内から屋外に排気される空気をその熱源にすることが合理的になります。もちろん、実用的には一定の工夫は必要になると思います。例えば、給湯の場合には排水を熱源にするために、排水を予め貯留して熱源として利用できるようにしておかなければなりません。筆者は、このように生活のあらゆる場で必要となる、若干の温度上昇もしくは温度低下が必要な場合には、すべてヒートポンプを使用するのが良いと考え、これを「ユビキタスヒートポンプ」と名付けて、関係者にアジりました。ただ、残念ながらアジった効果を実感できていないのが少し残念です。