第六十八夜 煙突効果

 2019年の年末から猛威を振るったCOVID-19感染症も4年余りを経過して、世界的にも下火となり、国内での移動制限や海外渡航制限もなくなり、2019年以前のように海外も含めて出張や観光旅行も気兼ねなくできるようになりました。筆者も、学会出席を兼ねて2024年の冬に久しぶりに米国シカゴに1週間弱、滞在しました。東京の冬は、気温が0℃を割り込むことは滅多にありませんが、シカゴは冬場では日中の最高気温でさえ0℃に届かないことも多い、極寒の地です。もっともシカゴは夏場、暑いことでも有名です。夏は暑く、冬は寒さが非常に厳しく極寒になるのが特徴と気候的には暮らしやすい都市ではありません。

 シカゴは近代建築で有名です。シカゴ派 (Chicago school)という名前を残しているように近代建築で始まった鉄骨造の高層建築の発祥の地とされています。シカゴ派の代表的な建築家また理論家として、建築史にその名を残している人に、ルイス・サリヴァン(1856-1924)という人がいます。サリヴァンは、「形(かたち)は機能に従う(form follows function)」を提唱し、近代以前の建築が過去の建築様式を根拠にするという建築の形に関する頸木(くびき)を解放したことでも知られています。

 シカゴ派の建築は、過去の建築様式にあまり捉わられません。強度のある鋼製の大型フレームワークにより、高くほっそりした建築を生み出しました。壁、床、天井などの建築要素は荷重を支える役目の鉄骨に支えられ、構造としての耐力を持ちません。いわゆる「鉄骨コラム・フレーム」構法と呼ばれるもので、西洋建築で主流であったレンガや石積みによる組積造に対する新しい建築様式とされています。もっとも、木造建築が主流である日本などでは、今も昔も、構法としての「コラム・フレーム」が一般的で、木造で組積造に対応するものは、少し無理やりの分類という気がしますが、丸太を積み上げるログハウスでしょうか。その意味では「コラム・フレーム」を、新しい建築様式というにはアジアや日本の建築史観から見ると多少、憚られます。しかし鋼の強度を生かした大スパンを可能とする「鉄骨コラム・フレーム」により、建築を高く積み上げるという点に「新しさ」があることは疑いありません。

 この「鉄骨コラム・フレーム」構法は階を重ねて建物を高くすることを可能としただけでなく、建物の壁を構造壁から解放し、より多くの開口を可能とし、室内を明るく、また屋外の景観を十分に室内に取り込めるようにしました。それ以前の建築は、構造壁としてレンガや石などでつくられて厚く、頑丈な壁により建物を支えていたのに対し、壁も薄くなり、その分、建物の床面積も増えました。

 この「コラム・フレーム」構法を鉄筋コンクリートで実現し、自由に軽快な建物を設計したのが、フランス人のル・コルビュジエです。ル・コルビュジエは、ルイス・サリヴァンよりは世界的には、名が通っているかもしれません。彼は、ルイス・サリヴァンより1世代、30年、遅れで建築界に登場しています。ルイス・サリヴァンらが開拓した鋼製フレームを用いた自由な建築に学ぶところは大きかったのではないかと思います。

 サリヴァンから始まるシカゴ派の建築家には、世界で初めて「モダン」なデザインの枠組みを確立した美術学校として評価されているドイツの「バウハウス」の3代目校長であり、「バウハウス」がナチスにより閉鎖された後、米国に亡命したミース・ファン・デル・ローエや、米国の最大級の建築設計事務所であるスキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル(Skidmore, Owings & Merrill, 略称 SOM)に所属する人々います。シカゴには、これらの建築家による高層建築の他、サリヴァンの事務所に勤務し、その影響を強く受けたフランク・ロイド・ライトの設計による建築も少なからずあります。サリヴァンの弟子筋ともいえるフランク・ロイド・ライトとミース・ファン・デル・ローエおよびル・コルビュジエは、「近代建築の三大巨匠」とも呼ばれています。

 シカゴは、この近代建築の三大巨匠の2人を輩出した街であり、全米最大級の建築事務所であるSOMを生み出しています。中心市街地には彼らの設計による高層建築群が立ち並んでおり、近代建築、特に高層ビル建築群により構成される街の始祖とも言えるでしょう。建築事務所のSOMは、現在も世界で多くの建築に関わっています。最近では、アラブ首長国連邦のドバイにある超高層ビルであるブルジュ・ハリファや、防衛庁檜町(六本木)地区の再開発で建設された東京ミッドタウンなどの建築設計にもかかわっています。シカゴには、SOMの設計した超高層建築が多くありますが、ジョン・ハンコック・センターやシアーズ・タワー(現在はウィリス・タワーと改名しているそうです)などは、世界的にも有名ではないかと思います。

 今からもう30年程、前になりますが、学会に参加するため初めてシカゴを訪問した際、真冬の厳寒期ではありましたが、建築に関係する一人として、筆者も学会の合間を縫って、これらシカゴの著名な建築群を見て回りました。中でもシアーズ・タワーは良い意味でも悪い意味でも筆者の記憶に強く残る超高層建築でした。悪い方になるかもしれませんが、シアーズ・タワーの展望階に上がるエレベータでは、典型的な煙突効果による高層建築における建物内の突風を経験しました。

 シアーズ・タワーは、シアーズというかつては世界最大の百貨店の本社ビルとして建設されました。地上高さ442 m(角のように突き出した2本のアンテナ部分を含めますと527 m)の110階建ての高層ビルです。1973年の完成当時は世界一の高さを誇っておりました。筆者が初めて訪問した1990年代初頭も、もちろん世界一を誇っており、見学者は真冬の観光シーズンとは言えない時期にも拘わらす、展望階行のエレベータの乗車待ち時間が1時間以上だったと記憶しています。シアーズ・タワーは、建て主のシアーズの事業拡大の失敗等により経営不振に陥り、1994年に売却されています。筆者は、多分、その売却の直前に見学したのだと思います。その関係で筆者が見学した時のシアーズ・タワーは、随分とくたびれていたかもしれません。売却後もしばらくは建物の名称のシアーズ・タワーは変更されずに残されていたようですが、現在は、イギリス系の保険関連会社ウィリスが命名権を取得して、2009年からはウィリス・タワーと称しているそうです。

 1973年にシアーズ・タワーが建設される以前は、2001年9月11日にイスラムテロ組織のアルカイダによる旅客機突入で破壊されたニューヨークのワールドトレードセンタービルが、地上415m(アンテナ部を含めると541m)で世界一の高さを誇っていました。筆者はテロの数年前にこのワールドトレードセンタービルに入居していたドイツ系企業に勤める日本人ビジネスマンの紹介でこの屋上に昇った経験があります。余談になりますが、彼はビルがテロで破壊される直前に転職して日本に帰国して難を免れており、皆からその強運にあやかりたいと噂されていました。シアーズ・タワーに戻りますが、シアーズ・タワーは、1996年まで世界一の高さ誇っていましたが、マレーシアのクアラルンプールに建設されたペトロナスツインタワー(地上高さ452m)に世界一の座を譲りました。ちなみに現在のところ、世界一の高さを誇る超高層ビルは、前述したSOMの建築設計によるアラブ首長国連邦(UAE)のブルジュ・ハリファで、高さ828m、163階建てと思います。日本では、2023年竣工の麻布台ヒルズ森JPタワーが高さ325m、64階建てで、今のところ日本一の超高層ビル高さを誇っています。しかしその座は、2028年竣工予定の東京大手町に建設中のTorch Tower(トーチタワー)、高さ385m、62階建てに譲ることになるものと思われます。

 シアーズ・タワーで筆者が経験した煙突効果による建物内の突風は、地上と展望階を結ぶエレベータで経験しました。エレベータが展望階に到達し、扉があいた瞬間、エレベータ扉と展望階の扉の間を強烈な気流が吹き上がり、吹き抜けました。両扉の間のギャップは、日本人の感覚ではかなり広く感じるもので、例えると、通勤電車の扉とプラットホームに設置されるホームドアとの間の隙間ほどにも思えました。ここを台風が来襲した際の風のような突風が吹き抜けたわけです。空気は温められると膨張し密度が減少します。シカゴの冬は寒く、外気温は0℃以下ですが、建物内は暖房されています。外気と室内の温度差を30℃を仮定すると空気の膨張率は絶対温度の逆数でおよそ1/300程度になりますので、外気に比べ建物内の空気密度はおよそ10%低く(軽く)なっていることになります。空気の密度は0℃でおよそ1.2kg/m3ですので、鉛直方向400mでは、建物内と屋外では、およそ40kgf/m2の圧力差が生じることになります。SI単位では、400N/m2、すなわち400Paもの圧力差が生じることになります。400Paの静圧がすべて動圧に変換されるとすると、風速はおよそ25m/sになります。私が経験したエレベータ扉と展望階の床の隙間を吹き抜けた風は、そこまでの強風ではなかったかもしれませんが、台風並みと感じたことは確かです。突風の音も大きかったと記憶しています。シアーズ・タワーの地上階(1階付近)と最上階でどの程度、外気に開放された空気流通のある開口があったのか、筆者は知りません。両者の開口が同じ程度であったとすると、中性帯はビル高さの中間に生じます。その場合、地上階(1階)の室内側は外気に対して煙突効果で200Pa(20kgf/m2)も減圧され、屋上階(最上階)では外気より、200Pa(20kgf/m2)も加圧されることになります。大きな圧力、すさまじいといっても良い圧力が生じているわけです。米国やヨーロッパでよく見かける玄関の回転扉は、室内と屋外で大きな圧力差があっても、扉の開閉に不自由はなく、また屋外から室内に大量に空気が吹き込むこともありません。煙突効果により地上階(1階)の室内と屋外に大きな圧力差が生じる超高層ビルでは、回転扉は打ってつけの出入り口になります。超高層ビルの煙突効果による地上階や最上階での室内外で生じる大きな圧力差は、ビルにエレベータや階段など空気が下階から上階に自由に流通しうる竪穴が存在し、竪穴の空気温度が外気の温度と異なって室温と同じ程度あり、竪穴の下端や上端が外気に多少なりとも開放されていることで生じます。シアーズ・タワーのエレベータは、これを実感させるとても良い教科書的事例でした。

 超高層ビルにおける煙突効果による空気流動は、建物の竪穴であるエレベータシャフトや階段内の温度が外気温と異なるために生じます。逆に言えば、これら竪穴の温度が外気温度と同じ、すなわち屋外であれば、このような現象は生じません。まさしく火が焚かれていない燃焼炉の煙突内でドラフトが生じないのと同じ理屈です。筆者も建築に携わった者として、最近、設計、建築される超高層ビルのエレベータシャフトや階段などの竪穴はどのように設計されているか興味が湧くところですが、この煙突効果による弊害はあまり話題にならないようです。もう克服された課題になっているかもしれません。