「断捨離」という言葉を聞くことがあります。筆者は、親元を離れて以来、様々な人生のインベントに対応して、引っ越しを経験しました。引っ越しを機会にして、表層的ではありますが、いわゆる「断捨離」を試みて、引っ越し荷物の軽減を図りました。あまり成功しませんでしたが・・・。「断捨離」は、「ヨガ(ヨーガ)」の思想を起源とするそうです。「ヨガ」は元々、瞑想を主とする古代インド発祥の伝統的な宗教的な修行ですが、現代において宗教性は薄れ、身体的エクササイズが意味されることが多いようです。この「ヨガ」の修行には、断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)があり、これが「断捨離」対応するそうです。断は、新たに手に入りそうな不要なものを断ることを意味し、捨は、家にずっとある不要な物を捨てること、離は物への執着から離れることを意味します。最近、はやり言葉となった「断捨離」は、不要な物を減らし、生活に調和をもたらそうとする思想を言うそうです。もともと、「ヨガ」の修行(行法)が元になっており、不要な物を「断ち」「捨て」、物への執着から「離れる」ことにより、「もったいない」という固定観念に凝り固まった心を開放し、身軽で快適な生活と人生を手に入れることを意味するそうです。その意味で、単なる片付けとは区別されるもののようです。
建築学を学ぶ学生は、近代建築史の中で、米国のシカゴ派の巨頭であるルイス・サリヴァン、ミース・ファン・デル・ローエや、相互にその影響を与えあったルートヴィヒ・ヴァルター・グロピウス、フランク・ロイド・ライト、あるいはル・コルビュジエやアルヴァ・アアルトなどの建築家の作品を学びます。これら建築家の建築は、モダニズム建築(Modern Architecture)もしくは近代建築と呼称されます。これは、産業革命以降の工業化社会を背景とするもので、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立しました。19世紀以前の建築様式(歴史的な意匠に基づく建築様式)を否定して、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用い、それらの材料に特有の構造、材料が可能とする表現を表すものとなっています。19世紀以前の建築の「装飾性」、「様式性」と決別し、機能的、合理的な造形理念に基づく建築と主張されています。「断捨離」の考え方に似ているとは思いませんか。筆者などは、建築における一種の「断捨離」が行われたと言って良いと考えます。この「装飾」や「様式」に関する「断捨離」には注意が必要です。「装飾」は一般には物品、建築物、身体等を装い飾ることを意味します。人の社会では普遍的に存在する行為です。装飾の飾りは、それ自体が特に重要な機能を持ちません。ただ、人の視覚的美感に訴えるものです。モダニズム建築では建物全体のスケールに比べて、小さなスケールでの装飾は、断捨離され、省かれました、そのシンプルな形態は建物スケールでの装飾とも言えるもので、人の視覚的美感に訴えるものとなっています。建築様式の「断捨離」と言えるように思われます。
建築の装飾と対となって使われる言葉、「建築様式」は、ある特定の特徴を持った建造物の様式を意味します。例を挙げると分かりやすいと思います。例えば、ヨーロッパの建築史上で主要な建築様式をあげれば、ギリシア建築、ローマ建築、ビザンティン建築、新古典主義建築などがあげられます。アジアの建築史上で主なものをあげれば、ペルシア建築、ヒンドゥー建築、仏教建築、ヘレニズム、日本建築、イスラム建築などがあげられます。ミース・ファン・デル・ローエや、ル・コルビュジエやアルヴァ・アアルトなどの建築家によるモダニズム建築は、機能主義、合理主義の建築として成立したものです。モダニズム建築は、鉄骨造や鉄筋コンクリート造という新しい技術によって、石造・煉瓦造が持っていた制約から自由になったことから発展したものです。モダニズム建築の多くは装飾のない直線的構成を持つ立方体を特徴とします。「豆腐のような」建築、ただの「白い箱」と揶揄されたこともあります。モダニズム建築は、機能的・合理的で、地域性や民族性を超えた普遍的なデザインとされました。過去の様々な建築様式が、装飾と切っても切れない関係を持っていたのに対し、装飾がないことが特徴となっています。モダニズム建築を推進する建築家の中には、「装飾は犯罪である」と宣言し、装飾そのものを否定する人も現れました。モダニズム建築は、用途や素材に従って設計されるものであり、装飾を付けるのは原始人の刺青のようなもので、文化の程度が低いことを示すとまで主張されたようです。行き過ぎた「断捨離」でしょう。
装飾を否定することは、人の営みへの無理解もしくは単なる反発であり、人の本質からはかけ離れたものに思えます。歴史上、身体の装飾がいつ始まったのかは定かではないようです。しかし人が社会を形成するようになって以降の遺構からは、さまざまな身体装飾の痕跡が見出されています。縄文時代の土偶などには、入れ墨が表現されており、刺青が、身体装飾に使用されています。この身体装飾は、美意識だけによるものではなく、個人や集団を同定するシンボル的な意義をもっており、成人になった明かしなどの通過儀礼に見られます。現代人も、衣服や装身具を着用して身体装飾をするほか、身体に直接、化粧、染髪、結髪、などを施して身体装飾を行います。装飾は、その意味で、まさに人間の本性に発する人間的な行為です。人が日常的に接する衣服や建物に装飾を施すことは、身体装飾と同様、人の本性といえる行為とも考えられます。衣服や建物にも、個人や集団を同定するシンボル的な意義を示す装飾が必要不可欠だと言えます。
モダニズム建築の後から登場した「ポストモダン建築」は、モダニズム建築への批判から提唱された建築のスタイルといえます。合理的で機能主義的となった近代のモダニズム建築に対し、その反動として現れた装飾性、折衷性、過剰性などの回復を目指した建築のことをいいます。言葉としての「ポストモダン建築」は、1980年代頃を中心に流行りだしました。「ポストモダン建築」においては、モダニズムにおいて否定された装飾や象徴性の回復などが唱えられています。日本における身近な建物で、ポストモダン建築を象徴するものとしては、原広司が設計し1997年に竣工したJR京都駅などが、分かりやすいかもしれません。原広司が「ポストモダン建築を主導した」と言いたいわけではありません。単に衆人が良く見る建物を挙げただけですので、誤解しないでください。日本が世界に誇る観光都市である京都の玄関口に、そびえ建つJR京都駅は、「ポストモダン建築」に分類されても無理がないという意味での引用です。JR京都駅は、明らかに単純形状の立方体のガラス箱とはかけ離れた複雑な形状と表情を持ち、装飾に満ち溢れた建物になっています。その形は、建物の機能を実現したというよりは、装飾を強く意識させた形になっています。大阪や東京に立ち並ぶモダニズム建築の典型のようなガラスに覆われたシンプルな形状の高層のオフィスビルと見比べると、その装飾性は、あるいは「やりすぎ」という印象を与えるかもしれません。
「ポストモダン建築」を見渡す時、中国の都市にそびえたつ多くの高層ビルが思い出されます。中国の大都市にはポストモダン建築を表象する多くのビルが林立していることに気づきます。数十年前の共産圏の国々で見かけた灰色の箱のような建物が立ち並ぶ亜種の「モダニズム建築」群とは全く異なっています。中国の大都市の中心市街地に立つ高層オフィス建築群の織りなす景観は「ポストモダン建築」の行きつく先を示すようで、極めて自由闊達な印象を与えます。特異に権威主義的な社会体制下にある中国における都市景観としては不思議な印象を感じます。
いずれにせよ、近代都市の中心部のモダニズム建築様式の超高層ビルやポストモダン建築様式の超高層ビルは、都市の風環境や光環境などに大きな影響を与えてきました。超高層ビルは、都市上空の風の流れを阻害し、地表面付近の風環境を大きく変えます。そのためこれらの超高層ビルが周辺の都市環境に与える影響評価も必要とされるようになりました。そのおかげで、都市環境における流体シミュレーション(CFD)は、大きく発展しました。CFD技術者にはありがたいことと言えますでしょう。モダニズム建築による高層ビルまわり風環境は、形状がシンプルであるが故、風洞模型実験やその他の方法で良く調べられており、風環境予測は、過去の蓄積が大いに役立つ気がします。一方、ポストモダン建築は、大きなスケールでの装飾性が高く、形状も複雑な形となっています。そのため風環境予測は、高層建築の形状をしっかりと再現したCFDや風洞模型実験でしか、十分にはできない状況になりそうです。CFD技術者には、ポストモダン建築様式の高層建築は、より有難い存在のように思えてきます。