第七十一夜 座屈

 座屈(ざくつ、buckling)という言葉を聞かれたことはあるでしょうか。機械や建設工学にかかわる人であれば、座屈は、構造力学上、重要な観点ですので、専門分野を学ぶ際に必ず勉強されたことと思います。座屈は、日常的に極めてありふれた物理現象です。物心がつく子供のころから見慣れています。ですが、多くの人は座屈する物体を見ても、それが座屈した物体であると認識することはあまりないでしょうし、気にも留めないような気がします。筆者も、座屈という言葉を知り、その意味をおぼろげにも理解したのは、実に大学の専門課程に入って初めて学ぶ構造力学の授業でした。教授に「君たちは建築に使われる柱の強度は、柱の断面積とその圧縮強度で決まると思っているだろうけど違うよ。細長い柱に大きな圧縮力が掛かると、柱は圧縮強度に達するより遥かまえの小さな圧縮力で大きく曲がってしまい、その曲げ耐力に耐えられずに破壊されてしまう。曲げモーメントを知っている君たちは、圧縮された時、圧縮の力の軸がずれていて曲げモーメントが働いて曲げが生じると思っているかもしれないけど、軸が一致していて、曲げモーメントが働かなくたって、圧縮力が大きくなる過程で突然、曲げが生じてしまうのだ。」と言われました。初めて聞く座屈の話は筆者の思いもよらぬことで、その衝撃故に教授の顔や声も含めて今も鮮明に筆者の記憶に残っています。

 教科書的に、座屈を説明すると以下のようになるかもしれません。まず、前提として構造体は荷重をかけても変位が生じない剛体(高校物理の授業で初めて知った言葉です)ではなく、荷重の増加により変位も増加して反力を発揮する弾性体(バネですネ)であり、変位が限界を超えると破断や塑性変形を起こし反力が著しく低減する性質を持ちます。例えば超高層ビルの底部の柱は、鉄筋コンクリート柱であろうと鋼製柱であろうとも大きな鉛直荷重を受けますので、荷重がない場合に比べて縮んでいる筈ですし、高層ビルが解体されて鉛直荷重がなくなれば元の長さに延びるはずです。座屈は、構造物に加わる荷重を次第に増加させた時、ある荷重に達すると突然、変形の模様が変化して大きなたわみ(変位)が生ずることを指します。座屈はその構造の剛性および形状に依存します。材料の強度以下でも生じることがあります。軸圧縮を受ける柱の場合、材料、断面形状、軸圧縮力の条件が同じでも、座屈現象が柱の長さに依存するため、短い柱では座屈は生じません。しかし柱が長くなると座屈が発生し、長い柱になるほど、小さな軸圧縮力で座屈が生じます。座屈は、圧縮を受ける材料に生じる特有の現象で、そのような圧縮を受ける構造部材の設計では、座屈強度に対する注意が必要になります。

 今は、もう使われないかもしれませんが、筆者の子供時代、学校では、筆筒と下敷板という薄いプラスティック板の2点セットが、筆記道具として必ずランドセルの中に入っていました。今でもそうだと思いますが、小学校でのノートは鉛筆で筆記します。子供ですから筆圧の加減ができず、ノートには必ず下敷板を挟んで、鉛筆の筆圧が次ページ以降の用紙に跡を残さないようにする必要がありました。子供の鉛筆使いには下敷板は必須です。話は少し飛びますが、大学や高校などの入学試験では、多くの場合、試験中に消しゴムで訂正ができるよう鉛筆やシャープペンシルでの回答が一般的で、ボールペンや万年筆での回答は許されていないと思います。鉛筆での回答にもかかわらず、下敷板の持ち込みは禁止されていることが多いようです。わらをもつかむ受験生は、下敷板に試験問題の回答のヒントになりそうな書き込みをしている可能性がありますので、下敷板の持ち込みには注意が必要になります。受験生すべての下敷板のチェックを限られた人数の試験監督が行うのは大変ですから、下敷板の持ち込みは禁止となっていることが多いようです。小学生のノートとは違い、試験の解答用紙は一枚もしくは複数枚の場合でも切り離されているでしょうから、大きな筆圧で回答しても回答用紙が傷むこともなく、机の天板の上での回答筆記が前提です。ただし、先輩方が授業中の退屈さしのぎに、天板に溝を掘ったりなどの悪戯をしていて滑らかでない場合もあるので、数枚の下敷板が用意されていて、受験者の要望によっては貸し与えることもあるようです。

 いずれにせよ、小学生が使う下敷板は、金属板の固い板であることは稀かと思います。薄いプラスティック板が一般的ではないかと思います。この下敷きの両端を板面と垂直方向に曲げが働くよう力を加えますと、下敷板は曲げの力に対応して曲がります。この時、曲げが働かないよう下敷板の両端を面方向に沿って押して圧縮をかけてやっても下敷板は曲がります。ここでさらに両端に圧縮を掛けますと下敷板は曲げに耐え切れなくなって割れてしまいます。筆者も小学1年生の時から、下敷板で座屈を経験していました。なのに、大学の授業で初めて座屈を勉強するまで、この座屈現象を意識することもなく、「ぼーっと」暮らしてきたわけです。「座屈」の授業を初めて受けた時の筆者の衝撃を理解していただけますでしょうか。

 下敷板の座屈に戻ります。ここで板の両端を圧縮しても下敷板が座屈して曲がらないよう、下敷板の両面を固い材料で支えて、曲げの変位が生じないよう拘束すると、下敷板は、曲がらないので子供の力でどんなに圧縮しても潰れて破壊されてしまうようなことはありません。下敷板の両端を引っ張って、張力をかけても子供の力では下敷板が破断しないように、圧縮力をかけても曲がらないよう拘束を与えてやれば座屈をおこして割れてしまうようなことは生じません。プラスティック製の下敷板は、かなり丈夫な材料ですが、同じことを薄い段ボール紙などでやってみたこともあると思います。薄い段ボール紙は、プラスティック板のように強くはないので、引っ張った時は破れますし、曲がらないよう面を拘束して圧縮すると、潰れて壊れます。段ボール紙が自由に曲がるように拘束をしなければ、少しの力で横方向に座屈して曲がってしまい、潰れてしまいます。このような板材の座屈は、子供達は小さな頃から体験的によく知っている知識であったと思うわけです。

 最近、大きな地震の被害があり、被害にあわれて自宅などが損傷してしまった方々が、学校の体育館などに避難されている光景をテレビのニュースなどで見ることがあります。避難されている方々が、少しでも健康的に過ごせるよう、災害時用に普段は折りたたんで備蓄されている段ボール製の簡易ベッドが提供されることがあるかと思います。筆者は、この段ボール製の簡易ベッドの実物は見たことがありませんが、一台、1万円程度の値段で(段ボール箱は結構な値段がします)、耐荷重が150kg以上と通信販売のカタログに載っています。この段ボール製のベッドは、横臥して使用しますが、ベッドの上で座ったり、あるいは立ったりして荷重が一点に集中することもあるであろうに、実用上、ベッドが破損するような問題はないようです。凄いと思いませんか。子供のころの経験で、段ボール板の圧縮強度は、座屈を防ぐように段ボール板の角が折り曲げられていて、曲げがある程度、拘束されていても、所詮は紙製で、人の荷重で座屈して壊れてしまうのではないかと、心配でしたが問題がないほど強いようです。

 耐荷重を考える際には、圧縮時の座屈への考慮が必要になり、座屈が生じそうな箇所に関しては、座屈による曲げが生じる可能性のある面内で拘束を与えることが良く行われます。スチフナープレートと称されるプレートを材料に接着して拘束することが一般的かもしれません。柱などの垂直材では、全体を鋼板で巻いているのを見かけますが、これも座屈防止用の拘束の一方法かもしれません。鉄道などのコンクリート構造物では、柱を鋼板で巻いて変位を拘束し耐震補強した例をよく見かけます。そもそもそうした柱は、設計当初から柱全体の座屈が生じないよう柱の太さと長さを調整した筈で座屈耐力に対する備えではなく、柱のせん断耐力補強の効果を期待しての補強のようですが、副次効果として座屈防止の拘束の効果もあるのでしょう。

 筆者は流体に関わる職業柄、この鋼板を巻いた柱を見るたび、素人ながら柱に水平耐力を期待せず、鉛直荷重を受けるだけであれば、鋼板の柱の中身は、コンクリートなどの固体でなく、水や油などの液体、極端に言えば圧縮空気などの気体でも良いのではないかと思ってしまいます。液体や気体は、せん断耐力はありませんが、圧縮耐力はあります。油圧機械を思い出してください。パスカルの原理で、莫大な力を発揮できる油圧機構のシリンダーや作動油を思い出せば、鉛直荷重を受けるだけの構造物の柱であれば、シリンダーに相当する部分はケプラーや炭素繊維の強靭な袋として、中身は水や油、もしくは砂などの粉体でも良い気がしますが、如何でしょう。このような液体や粉体を構造材に使う場合、せん断耐力を期待できないことはむろんですが、残念ながら張力を期待することもできません。トリチェリーの真空を思い出すまでもなく、液体が入った構造材に張力を働かせると弾性変形が限界に達した後、真空領域により分断されそうです。ところで、この液体や粉体による柱は、座屈を免れるのでしょうか。残念ながら、曲げに対する拘束力が、液体や粉体を入れる袋にある限り、液体や粉体などの中身が入っていた袋自身の曲げ耐力が座屈耐力を決めてしまいそうです。子供のころ、細長い袋に入ったジュースを駄菓子屋で見かけましたが、ジュースが入っていてもこの細長い袋ジュースは、曲げの力を受ければ曲がりましたし、実験したことはありませんが、圧縮してやれば多分、座屈したと思います。  

 液体や粉体の柱の続きですが、災害時などに使われる土嚢が思い出されます。この土嚢を使った構造物を考えることはできると思います。土嚢を石材のように利用して、圧縮力にだけ耐える構造材料として大きな土木構造物をつくることも可能ではないかと思います。ケプラーや炭素繊維などでできた強靭な袋の中に水を入れた土嚢を積み上げて、例えば黒四ダムに匹敵するようなアーチ式ダムをつくることも可能なような気がします。流体で構造物をつくるなんて魅力的ではありませんか。