第七十四夜 目前の空気

 現代ではエンジニアリング関係の多くの人は、ニュートンの運動法則を知っているのではないかと思います。法則は3つあります。第一法則は慣性の法則です。物体(質点)に力が作用していない場合、物体の運動は変化しません。少し物理学的に表現すると、「運動が変化しない」とは、「加速度(物体の速度が単位時間に変化する割合)が0である」ということになります。第二法則は運動の法則です。物体(質点)の加速度は、作用する力に比例し、向きは力の方向になります。良く知られている式、「エフイコールエムアルファ:F = mα」になります。物体の質量をm[kg]、物体に働く力をF[N]、物体の加速度をα[m/s2]として、数式を表現しています。筆者が1990年代、流体関係の学術誌を購読するため、米国の物理学会APS(American Physical Society)の会員になった際、米国物理学会の会員専用のWebページにアクセスするため、会員に割り振られていたパスワードが「F=ma」で、とても分かりやすく、会員であればだれでも知っているパスワードだと感心した覚えがあります。(現在は会員専用のWebページはもちろん個々の会員に割り振られたパスワードが使われており、パスワードF=maは使用できません。)第三法則は作用・反作用の法則です。物体(質点)に力を加えると、同じ大きさで同一直線上に反対向きの反力が発生します。

 このニュートンの運動法則は、エンジニアリング系の基本の基本ともいうべき知識だと思いますが、これを技術に関わる皆様が、良く理解されているかは別のようです。筆者はもう半世紀も前になりますが、大学授業で建築の構造力学を学んだ際の、教員の言葉が忘れられません。教員は、我々、学生に尋ねました。「大相撲を戦っている高見山(高見山大五郎1944-、体重205kg)と貴乃花(貴乃花利彰1950-2005、体重114kg)が押し相撲をした。高見山は貴乃花を250kgw(2500N)で押し、貴乃花は高見山を150kgw(1500N)で押した場合、作用・反作用の法則で、高見山が貴乃花を押す力と貴乃花が高見山を押し返す力は、方向は反対方向であるが同じ力になる。これはすなわち双方が押す力は釣り合っているので、両者は土俵上で動かず、押し相撲を続ける限り水入りになるということで良いか。」という問いである。半世紀も前の授業ですので、力士の四股名も半世紀前になります。この教員の問いは、力学を正しく理解しているかを調べるものとして、大学入学試験の物理の問題などでは良く出題されるので、物理の大学入試対策をした高校生であれば、難なく答えられます。でも入学試験を数年前に通過し、以後、力学とは縁のなかった学生にはかなりの難問になります。すぐに正しく答えられた学生はいなかったように思います。筆者も後年、大学教員となって学生と対峙する際、最高学府で学ぶ学生が高校で習う物理の基本的な問いにも答えられず物理の基本も理解できていない現実を、学生に知ってもらうという意味で、この手の問題をパクリで学生に良く問いました。ただ昔の貴乃花は、貴乃花利彰の息子である貴乃花光司になり、高見山は、曙などに代わりましたが。力学は、様々な力が働いている集団の中から考察すべき対象物を抽出し、その対象物に働く力、すべてを明確にして、力の釣り合いを考えるという意味で、社会学や経済学の分析手法に通じるところがあり、物理学でありながら社会科学や人文学に通じるところがあるという感慨を持ちます。

 大学教員となって学生と対峙する際に、筆者が学生に投げかけた流体力学に直接、関係する問いがあります。それはパイプやダクトの中の流れに対する質問です。曲がったパイプがあるとします。流れはパイプの曲がりに応じて流れの方向を変えて、パイプの中を流れます。流れが方向を変えるということは、加速度が生じたということです。パイプの中を流れる流体が力を受けて運動の方向を変える加速度が生じたことを意味します。この運動の方向を変える力は、どこから生じたのでしょうか。次の問題として、この曲がりのあるパイプを支えるステー(支柱)は、パイプの中の流体が静止している時と流れている時では、違うのでしょうか。

 この曲がりのあるパイプの中の流れは、曲がりのある道路で、車が道なりに曲がることや、曲がりのある鉄道において、電車がレール沿いに曲がるのと類似性があるかもしれません。多分、車や電車が曲がる理由は、向心力が働くため運動の方向が変わる加速度が働くと説明されたと思います。向心力の正体は、車であればタイヤと道路の間で働く摩擦力であり、道路面は車のタイヤ面に摩擦による曲がりの中心方向に向かう向心力を与え、タイヤ面はその反作用として道路面に曲がりの外側方向に力を与えているということになります。道路面はその力を受けて、少し弾性変形します。(アスファルトのように柔らかい材料であれば、塑性変形もあるかもしれません。) 電車も同様で、車輪のフランジ部にレールからの向心力が働き、レールはその反作用として車輪のフランジ部から曲がりの外側方向に力を受けます。結果、電車はレールに沿って曲がり、レールは曲がりの外向きの力を受けて弾性変形している筈です。

 道路もレールも直接、タイヤや車輪と接触している面で力が相互に与えられます。では、曲がりのあるパイプの中の流れでは、パイプと流体の接触面での粘性による摩擦力が、パイプの曲がりに沿う力、すなわち加速度を与えているのでしょうか。違いますよね。流体内に運動に対応する静圧力が生じており、この静圧力が流体の運動方向を変えています。曲がりのない、運動方向に平行な壁は、流体の静圧力にそれほど大きな影響を与えません。もちろん壁には粘性による摩擦力が働いていますので、その摩擦力に対応して、流れ方向の静圧力は流れ方向に従って、少しずつ減少するはずです。しかし、流れの方向を妨げるような壁は、流れの慣性の方向の流れの勢いを妨げて減速させるため、その部分の流れの静圧力は上昇します。この静圧力の変化が、流れの方向を変えます。曲がりのあるパイプの中の流れは、曲がりの外側方向では静圧力が上がり、内側の静圧力は下がります。この静圧力差がパイプの曲がりに沿って、流れを曲げるわけです。流体が流れの方向を変える際には、常に対応した静圧力の変化があります。曲がりのあるパイプでは、こうした静圧力の変化に曝されます。もちろん粘性による流体の摩擦もパイプの壁面に働きますが、それよりパイプの壁面の垂直方向に働く、静圧力の総体がパイプに大きな力をもたらすこともあり得ることでしょう。曲がりのある道路やレールが、車や電車から向心力に対応する外向きの力を受けるのと同じです。従ってパイプを支えるステーが変形のない剛体ではなく弾性変形する材料でできていれば、パイプの中の流体が流れている時は、静止しているときに比べ、なにがしか、変形します。ステーがバネのように力により大きく変形する弾性変形材料であれば、曲がりのあるパイプの周辺では、ステーもパイプ内の圧力の変化に対応して目に見えるように変形することが観察されることでしょう。

 人は、空気の中で生活しています。空気は必ずしも静止しているわけではなく、流れていることも多いです。人は、代謝により100W 程度、発熱し、その代謝熱を周囲に放熱しています。人に接する空気にも皮膚を介して放熱されるため、人の周りの空気も受熱し上昇流となる自然対流が生じます。人の周りの空気はこの上昇流により駆動される空気の流れを形成します。上昇流により誘引される空気は、人の足元で周辺の床面の空気を四方から吸引し、収束させて上昇流となります。この空気の流れの中でも、微小な圧力の変化を生じさせています。流体シミュレーションは、こうした人も周りの微小の空気流れや対応する圧力の変化を目に見える形で教えてくれます。流体シミュレーションの進化により、人の周りのこうした空気の流れや熱の流れ、これは人体周辺の微気象とも称されていますが、解明されるようになりました。