第八夜に引き続き、見たいものを見るようにすることについて考えてみたいと思います。前回は、見たいものは、学習し、
経験を積まないと見えるようにはならないことについて考えました。見えることは意識すること、意識して見ることにより
学習し、意識したものが意識しなくとも自然に見えるようになります。見たいものを見るようにするには、対応して知識や
技術が必要になります。
流れのシミュレーションで、知りたいことの一つに物体が流体より受ける抗力や揚力及びそれら力のなした仕事である圧
力損失(より正確には全圧損失)があります。このような固体表面に働く力は、固体表面法線方向には、流体の圧力が作用
し、接線方向には摩擦力が働きます。流れのシミュレーションを行えば、物体まわりの圧力分布や摩擦力分布は、比較的容
易に算出できます。物体表面で、得られた圧力分布や摩擦力分布を物体表面で積分してやれば、抗力や揚力は簡単に算出で
きます。ダクトやパイプ内など、輸送される流体がダクトやパイプ内で失う全圧損失もしくは静圧損失も、対象とするダク
トやパイプの出口と入り口、もしくはその途中の任意の断面で、静圧分布、流体の運動量分布(もしくは運動エネルギー量
分布)を、断面内で積分して、比較したい断面同士で、その積分値を比較してやれば、比較的簡単に算出できます。何の問題もありません。
第七夜から今夜まで、「見たいものは意識しないと見えない」などと、もったいぶった言い方をしてきましたが、特に意
識しなくても、知識や経験がなくても、誰でもそんなことはできるほど、容易なことです。「なんだ!」と思われる方も、
いらっしゃるでしょう。でも、ここからが、話の核心になるのです。キーワードは、「モデリング」になります。
皆さんは、何のために流体実験や流体シミュレーションをされるのでしょうか。流体実験がホビーという技術者を知って
います。流体実験を企画して、段取りして、実験して、観測して、その結果をまとめるのが、「楽しい」と感じられる方で
す。楽しいから実験をする。そうした実験もあるかもしれません。科学の進歩は、そうしたその人の「楽しさ」と「興味」
に支えられていますから、こうした動機で、流体実験をすること、同じように流体シミュレーションを行うことも大事だと
思います。悪口に聞こえてしまうと心外ですが、流体物理を専門にしている学者の方や研究者の方は、「楽しさ」と「興味」
に支えられて、実験やシミュレーションを行っていらっしゃるのだと思います。しかし、工学にたずさわる技術者の方々、
私もその端くれですが、流体実験を行うことや、流体シミュレーションを行う動機は、流体機械内部や建物、都市の周りの
気流や、海洋や湖、河川の中での様々な構造物の周りで生じている流れに関する「実現象の解明」です。もちろん、流体実
験や流体シミュレーションを行うことが、「苦痛」というわけではありませんが、「実現象の解明」が、流れや関連する物
理現象の支配方程式の解析的な分析や過去の経験則に頼るだけでは、十分に行うことができないため、流体実験を行い、流
体シミュレーションを行うわけです。流体シミュレーションを行う動機は、「実現象の解明」なのです。
ここで、大きな問題が生じます。実現象の解明は、実物の観測でできないのか?何も実験やシミュレーションでなくても、
実物で観測できれば、これほど確かに、実現象の解明に迫る手段はないように思えます。しかし、実物での観測は、観測でき
る範囲に制限のあることが常です。構造物や流体機械が破壊されそうな条件で、実物で観測できるチャンスはなかなかにあり
ません。長い時間、観測していても、検討したい条件がそろわない可能性もあるかもしれません。それよりも何より、実現象
は実際の世界に存在しており、実際の世界で起きている気象条件など様々な現象の影響を受けます。必要とする条件の他、様
々なノイズが乗った条件でしか、実現象の観測はできません。実現象の観測は、極めて受け身的、パッシブな条件で観測にな
り、時間とノイズ除去の手間がかかります。一方、実験やシミュレーションであれば、実験者やシミュレーションの実行者が
能動的、アクティブに条件を定められます。実物での観測に比べ、費用も時間も大きく節約できると思われます。
実験やシミュレーションでの問題は、このアクティブに定められる実験やシミュレーションの条件です。私は、実現象とは
異なる条件という意味で、この実験やシミュレーションで使われる条件のことを、「モデリング」と呼んでいます。実験は、
相似則などの問題はありますが実際の物理現象が再現されるので、現象の支配過程は、実際の物理現象が使われますが、シミ
ュレーションは、現象の支配過程ですら、数学的なモデル方程式が使われます。実験やシミュレーションの境界条件や初期条
件も、実現象をモデル化、単純化されたモデル境界条件、初期条件が使われます。今回のテーマである「見たいものを見る」
ためには、この「モデリング」の問題を避けて通れません。モデリングを誤れば、見たいものを見ることができませんし、別
に見なくてもよいものを莫大なコストや時間をかけて、見ることになることもあり得ます。
見たいものを見るには、シミュレーションの中で多くの人が何気なく仮定している様々な、モデリングを、合理的に選択し、
選択が正しかったことを検証するプロセスが必要になります。
流れの中の物体に働く、抗力や揚力、あるいは流体機械の中で生じる全圧損失を、必要とされる精度でシミュレーションに
より予測するためには、シミュレーションの実行の際に選択された、支配方程式のモデリングや境界条件、初期条件のモデリ
ングの合理的な選択が必要になります。次夜は、流れの境界条件の中でも、最も基本となる流体と接する固体表面の形状のモ
デリングに関して考えてみたいと思います。